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2024年11月21日
進撃の巨匠 竹内栖鳳と弟子たち/福田美術館
エントランス看板
『進撃の巨匠』。観覧前からワクワクする、そんなタイトルです。
近代京都画壇の巨匠・竹内栖鳳(たけうち せいほう)を辿る展覧会が、京都・嵐山の福田美術館で開催中です。
竹内栖鳳は、明治から昭和初期にかけて活躍した京都画壇を代表する日本画家。「その存在無くして近代京都の美術史を語ることはできない」といわれるほど、京都画壇に新風を吹き込みました。
竹内栖鳳の画業は、京都の伝統的な画派・円山四条派での学びから始まります。
栖鳳は13歳で絵を始め、17歳の時、円山四条派の幸野楳嶺(こうのばいれい)に入門します。
円山四条派とは、江戸中期に円山応挙(まるやまおうきょ)が確立した写生重視で優雅な画風の円山派と、それに影響を受けた呉春(ごしゅん)が確立した四条派を合わせて呼ぶようになったもの。
円山応挙《龍図》1788年 (前期展示)
円山四条派の祖・円山応挙の作品も展示されていました。
波間から躍り出て天へ向かう龍を、小襖の画面いっぱいに描いています。
竹内栖鳳《鮮魚》1929年 (前期展示)
竹内栖鳳も写生を重んじた円山四条派の流れをくんでいます。
まさに「獲れたての新鮮な鯵」。絵なのに、活きがいいのがわかります。
栖鳳は川魚料理屋の息子。食材には幼い頃から親しんできたのでしょう。
竹内栖鳳《海光清和》1926年頃 (通期展示)
「ああ、なんと上手いのだろう」。栖鳳と同時期に活躍した日本画の巨匠・鏑木清方の言葉です。
群青色の海、淡く輝く朝霧をあらわす金泥で描いた海原。おだやかな静けさが漂ってきます。清方の言葉どおり「上手い!」としかいいようのない作品。
いよいよ栖鳳の十八番、動物画に移りましょう。
竹内栖鳳は「けものを描けば、その匂いまで表現できる」と評されるほど、動物画を得意としました。緻密な観察力と写生、卓越した描写力に裏打ちされた出来栄えです。
竹内栖鳳《春日野》1924年頃 (前期展示)
大胆な構図!伝統的な鹿の描き方を打ち破り、掛軸の細長い画面に収める感覚。栖鳳ならではの斬新さです。
竹内栖鳳《金獅図》1906年 (通期展示)
栖鳳の動物画の中でも人気を呼んだのはこの獅子図。
岩場から身を乗り出し、今にも飛びかからんばかりのライオン。迫力満点の逸品です。
栖鳳は1900年パリ万博を視察し、西洋絵画に大きな影響を受けました。
日本画で獅子と言えば唐獅子でしたが、栖鳳はヨーロッパで実物のライオンを観察、帰国後に描きあげました。獅子図は人気を呼び、注文を受けて何作も制作されたといいます。
金獅図部分(筆致を見やすくするため画像をモノクロにしています)
近づいて見ると、より一層迫力が増します。
毛並みの筆致が細やかで、これまでの日本画にはない写実的な描写が見てとれます。
竹内栖鳳《猛虎》1930年 (前期展示)
ここ福田美術館近くの栖鳳のアトリエ「霞中庵(かちゅうあん)」で描かれた作なのだそう。
虎の視線の先に落款(らっかん)と署名があるのは、栖鳳の遊び心でしょうか。
竹内栖鳳《野雀》大正~昭和時代 (通期展示)
こんな可愛い絵もあります。雀は特に栖鳳が愛した画題。
群れで餌をついばむ中、右端の一羽だけこっちを向いています。
さらっと描いているようで、雀たちの動きをうまく構図にはめ込んでいます。
栖鳳は、円山四条派の技法を礎に狩野派や文人画、西洋画などの長所を取り入れ、新たな日本画を目指しました。
保守的な画壇からは、継ぎはぎの体を持つ妖怪・鵺(ぬえ)に例えて「鵺派」と揶揄されましたが、彼の類まれな技量は誰もが認めざるを得ませんでした。
竹内栖鳳《春郊放牛図》1902年頃 (前期展示)
金色に輝く野に、のんびり寛ぐ牛の姿。会場でひときわ目を惹いたのがこの屏風です。
よく見ると、右隻と左隻で描き方を変えています。
右隻の牛の姿は写実的。円山応挙の高弟で江戸中期に活躍した長沢芦雪を思わせる表現です。
対する左隻では、遠くで草をはむ牛たちを西洋の遠近法を用いて描いています。
牛の表情と小さな雀に注目!
飛んできた雀が気になったのか、振り返って視線を向ける牛の表情は今にも「モー」と鳴き出しそう。
傍で羽ばたく雀の姿が牛の大きさを際立たせます。
竹内栖鳳は多くの弟子を持ったことでも知られます。
京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)の教諭にも就任、後進の教育にも力を注ぎました。
交流が一目でわかる相関図
このパネルは、「栖鳳イズム」を受け継いだ弟子たちが一覧できる相関図。
栖鳳は文部省美術展覧会(現・日展)の審査員となるなど確固たる地位を築き、彼の元には京都画壇のそうそうたる顔ぶれが集まってきます。
多士済々で混乱しそうですが、相関図で確認しながら作品を観ていきましょう。ビジュアルで理解させる同美術館の配慮は実に優れものです。
西山翠嶂《槿花》1923年 京都市美術館蔵(前期展示)
栖鳳の助手を務め、栖鳳の娘と結婚した西山翠嶂(にしやますいしょう)の作。
儚げな画面から、栖鳳ゆずりの確かな写生力が見てとれる作品です。
西村五雲《高原之鷲》明治~昭和時代 (前期展示)
岸竹堂(きしちくどう)に師事し、のちに栖鳳に入門した西村五雲(にしむらごうん)の作品。
竹堂も写生を重んじる画家でした。五雲の筆墨は師の栖鳳を凌ぐとまで評されました。
上村松園《しぐれ》1940年頃 (前期展示)
美人画で有名な、上村松園(うえむらしょうえん)も栖鳳門下。女性としてはじめて文化勲章を受けた画家でもあります。
雨が止み傘を閉じる女性が、色鮮やかな紅葉に見入る一瞬。凛とした美しさが伝わる作品です。
師の栖鳳は、美人画をあまり描きませんでした。
「ある洋画家から下手と言われたから」「モデルになった人の死が相次ぎ、評判を気にした」という興味深い逸話もあります。
土屋麦僊《鶏頭花》1915年頃 (前期展示)
土屋麦僊(つちやばくせん)は、洋画家たちと交流を深め西洋絵画の影響を受けます。
同時に浮世絵の研究も進め、これは日本画の技法と西洋の色彩をとりいれた意欲作です。
栖鳳は自分の画風や思考を押し付けることなく、伸び伸びと筆をとらせました。
弟子の土屋麦僊や村上華岳(むらかみかがく)らは、師の栖鳳も審査員を務める文展の審査を不満として国画創作協会を結成しますが、栖鳳はそんな行動すら否定せず日本画の革新を目指す彼らを支援しました。
池田遙邨《旭譜》1982年 (前期展示)
「栖鳳イズム」は、戦後も日本画の革新をめざします。
その精神は健在で、小野竹喬、福田平八郎、池田遙邨らは新しい日本画を追求し、名を馳せました。
川合玉堂 横山大観 竹内栖鳳《雪月花》1932年 (通期展示)
栖鳳と同時代に活躍した巨匠たちとの共作。
雪月花のテーマで、玉堂が「雪」、大観が「月」、栖鳳が「花」を担当した三幅対(さんぷくつい=3枚一組)です。
3人それぞれの個性が際立ちます。デザイン画のような栖鳳の春山は、100年近く前の絵とは思えないほど斬新なもの。
栖鳳は「東の大観、西の栖鳳」と称され、京都画壇の筆頭として人気をさらいました。
展示風景
古典から南画、洋画まで垣根無く長所をとりいれ、類まれなる技量で描き続けた栖鳳。画壇の重鎮となりながらも弟子たちを型にはめることなく、個性をのびのびと育てました。
巨匠・栖鳳の精神を受け継いだ弟子たちが担う次代の日本画が網羅された、盛りだくさんの展覧会。
見どころが多いので、きっと満足感でいっぱいになりますよ。ぜひ皆さんも会場に足をお運びください。
前後期で展示替えあり
前期:1月18日(木)~3月4日(月)
後期:3月6日(水)~4月7日(日)