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2024年11月21日
ハニワと土偶の近代/東京国立近代美術館
東京国立近代美術館で開催中の「ハニワと土偶の近代」展。
タイトルを見て、遺物が展示されているのかと想像しましたが、教科書には載っていなかった歴史にも触れられる展覧会でした。
ハニワや土偶は、NHKの「おーい!はに丸」をはじめ、親しみやすいキャラクターというイメージがあります。
しかし、戦争の機運が高まっていた時代、ハニワは日本の神話と関連づけられ、戦う意志を盛り上げたり軍国教育に取り入れられたりした歴史があったのです。
岡本太郎やイサム・ノグチなど、原始的な美に注目したアーティストの存在はよく知られていますが、歴史的な背景があって、アートシーンでも取り上げられたのだと分かりました。
この記事では、展覧会を3つのポイントで紹介し、ハニワや土偶が人びとにどのように捉えられてきたのかをレポートします。
まず、ハニワの美が賞賛されるようになったのは、1940年頃だろうと言われています。
これは、神武天皇の即位2600年を記念するため、国家イベントが計画され始めた時期です。
上の写真は、木村武山の《英姿》という作品です。
神武天皇が古墳時代の短甲と冑を身に着け、剣を杖として武装する姿で描かれています。
明治の初めにもたらされた考古学の知見が、歴史画の制作にいち早く取り入れられた例だと言えます。
ハニワの美が語られた背景には、仏教が伝わる前の「素朴な日本の姿」を理想として掲げる思想がありました。
雑誌でハニワが特集されたり、絵葉書が作られたりと、理想化されたイメージは次第に大衆に浸透していきます。
上の写真は、1940年に発行された、神武天皇即位2600年記念の特別グッズです。
日常で見かける印刷物にも、建国神話のイメージが使われたと分かります。
ところで、近代の画家たちがハニワに注目したきっかけは、帝国博物館(1900年に帝室博物館に改称)が収集した出土品でした。
明治政府は、「万世一系」の天皇の系譜を示すため、陵墓の調査を行いました。
そして、発見された遺物のうち優れたものは、皇室財産として帝室博物館が収集できるようになったのです。
スポーツ大会の記念メダルの制作を手がけた日名子実三(ひなこじつぞう)は、早い時期からハニワに着目していました。
野見宿禰(のみのすくね)やハニワ馬をメダルのデザインに取り入れているのが特徴的です。
野見宿禰とは、土器やハニワを製作する土師部(はじべ)の祖であり、相撲の神ともされる人物です。
日中戦争下の1938年4月、国家総動員法が公布されると、政府が国家のすべての人的・物的資源を統制し運用できるようになります。
そうした潮流により、ハニワも士気を高めるモチーフとして活用されました。
上の絵葉書の写真は、紀元2600年奉祝記念塔「八絋の基柱(あめつちのもとはしら)」です。
日名子実三が設計し、神武天皇にゆかりのある宮崎県に建設されました。
塔の四辺に設置された「四魂の像」の装束は、ハニワの甲冑を参考に制作されたそうです。
このような流れを受けて、ハニワは戦意を高めるために活用されました。
ハニワの顔は、素朴さや清らかさの象徴となり、「日本人の理想」として軍国教育にも使われたのです。
終戦後、軍国主義にまつわる表現を抹消した「墨塗り教科書」の時代を経て、新しくなった歴史の教科書の冒頭には、出土品の写真が掲載されました。
軍国教育のためではなく、日本の文化遺産として紹介されています。
1950年代になると、日本中でさかんに発掘が行われました。
戦争で多くの地域が焼け野原となりましたが、復興と開発を進める中で、さまざまな遺物が出土します。
また、皇室の財産を収集するために設立された帝室博物館は、1947年5月に国立博物館に改称され、国民の財産となりました。
「国立博物館ニュース」第1号には、「国民と博物館古美術品は見直されねばならない」という見出しがあり、国民と遺物の関係を築き直そうという姿勢が感じられます。
特に着目したいのは、国立博物館が東洋と西洋、そして古代と現代をつなぐことに積極的に取り組んだ点です。
1951年に開催されたアンリ・マチス展を担当した嘉門安雄は、日本の古墳とマチスとの類似性について、同僚の考古学専門家から教えられたと話したそうです。
同年の日本古代文化展は、会期を延長するほど社会的な反響を呼びました。
実は、「縄文土器論」を発表した岡本太郎は、雑誌の依頼でこの展覧会を取材したことがきっかけで、縄文土器に美を発見したのです。
岡本太郎の《顏》は、「縄文土器論」の発表と同年に制作されました。
当時の岡本は、伝統を前衛的にアレンジすることに心を砕いていました。
この作品も、前衛いけばなの花器として構想された点が特徴的です。
また、日本の遺物に興味を示した作家の一人に、イサム・ノグチがいます。
イサム・ノグチは、戦前に来日して京都の博物館を訪れ、その後ハニワ好きを公言していました。
上の写真は、イサム・ノグチが京都で見たと考えられる《埴輪 帽子をかぶった男》です。
展示室には、イサム・ノグチと親交があった猪熊弦一郎の作品もありました。
猪熊はアンリ・マティスに師事したことでも知られています。
1951年に国立博物館の日本古代文化展を見てハニワを絶賛し、そのシンプルな美を自身の作品に取り入れていました。
このように、ハニワと土偶のイメージは、戦後にアートシーンで注目されたことで、以前の軍国主義的な印象から変化していったのです。
近年、ハニワや土偶が親しまれるようになった一因として、サブカルチャーが挙げられます。
1970年代以降にSFやオカルトが流行し、遺物はサブカルチャーを通して広まっていきます。
理由は、「異人」や「異界」を表すのに適したモチーフだったからです。
1966年に製作された『大魔神』は、国宝のハニワ《挂甲の武人》がモデルと言われています。
これは特撮映画の三部作で、舞台設定は戦国時代です。
「民衆が虐げられるとき、普段の穏やかな表情から怒りの表情に変わった魔神が天罰を下すという物語」
展覧会キャプションより
その後、石ノ森章太郎『人造人間キカイダー』のジャイアントデビルや、ゆでたまご『キン肉マン』のハニワマンなど、漫画やアニメに遺物を模したキャラクターが登場します。
NHKの教育番組「おーい!はに丸」(1983〜1989年放送)は、ハニワのキャラクターが現代の言葉を学ぶというユニークな設定です。
幼い子どもたちに「ハニワは親しみやすい」というイメージが定着したと想像できます。
こうして、神話に関連づけられたハニワ、そして戦後に美を見出された土偶は、サブカルチャーによってキャラクター化されていったと分かりました。
この記事では、展覧会を3つのポイントでレポートしました。
ハニワや土偶はゆるキャラに近い存在だと思っていましたが、時代によって人びとがさまざまな捉え方をしてきたのだと知りました。
同じモチーフでも、日本のルーツを表すのか、SFやオカルトに登場する「異人」として描くのかによって、まったく見え方が変わります。
戦争に活用されたのは負の歴史とも言えますが、人びとがハニワや土偶に魅力を感じたことが、近代の文化の発展につながったとも考えられます。
また、展覧会の解説には、戦後の出来事として「登呂遺跡の再発掘のニュースは、敗戦で歴史を喪失した日本の人びとにとって、明るい光だった」と書かれていました。
登呂遺跡は軍需工場として使われましたが、もとは弥生時代の水田遺構です。
武器が出土しない遺跡の発掘は、日本が平和国家として再出発することを強く印象づけたそうです。
古代の文化が、当時を生きる人たちに希望を与えたのだと思うと、心を動かされます。
今回の展覧会は、文化をどのように捉えるか、そしてどうやって未来に伝えていくかを考える機会となりました。
ハニワと土偶をモチーフにした作品を楽しみながら、日本が辿ってきた歴史に触れてみてくださいね。