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暮らしの中に潜むアートを発見!身近な素材と手仕事から広がる【東京都美術館】
2025年8月15日
小出楢󠄀重 新しき油絵/大阪中之島美術館
《帽子をかぶった自画像》小出楢重 1924(大正13)年 石橋財団アーティゾン美術館
日本近代洋画家の一人、小出楢重(こいで ならしげ、1887-1931)の25年ぶりとなる回顧展です。画業の初期から絶筆まで各時代の代表作を紹介しながらその多彩な画業をたどります。
楢重は、大阪でも商業の中心部にある裕福な薬屋に生まれました。
洋画家を目指して東京美術学校(現・東京藝術大学)を受験します。及第点を得た日本画科へ入学し、2年後に西洋画科へ転科し、1914(大正4)年に卒業しました。
左から:《素描(人体デッサン)》小出楢重 1912(明治45)年 芦屋市立美術博物館、《素描(人体デッサン)》小出楢重1911(明治44)年 芦屋市立美術博物館、[共に前期展示作品]
美術学校時代に繰り返し行ったデッサンは、その後の楢重の基盤となりました。
《自画像》小出楢重 1913(大正2)年 東京藝術大学
卒業後大阪に戻り、奈良に滞在して風景画などを描きますが、文部省美術展覧会(文展)へ落選が続きました。
見世物小屋や繁華街が身近にある環境で育ち、楢重の芸術的展開に影響を及ぼしました。
左から:《道頓堀風景》小出楢重1914(大正3)年 大阪中之島美術館、《道頓堀の夕陽》小出楢重1915(大正4)年 株式会社紀陽銀行
結婚と長男誕生の私生活の変化は、制作上の転機となりました。
1919(大正8)年《Nの家族》を二科展に出品して樗牛賞を受賞し、32歳での画壇への本格的なデビューとなりました。
重要文化財《Nの家族》小出楢重1919(大正8)年 公益財団法人大原芸術財団 大原美術館
1921年8月から翌年3月まで渡欧します。欧州滞在期間は短く、滞在中の作品は多くは残っていませんが、買い物を楽しみ、後の静物画のモチーフとなりました。
《滞欧書簡 ベルリンにて》小出楢重1921(大正10)年10月27日 芦屋市立美術博物館寄託(小出楢重旧蔵)
楢重が期待していた程の感動はなかった渡欧も、自分に適した表現を見つけ出す契機となり、帰国後は生活スタイルも西洋風に変え、色彩は明るく、筆触ものびやかに新しい作風へとなっていきます。
ガラス絵は、透明なガラス面に絵を描いて、反対面からガラスを通して鑑賞する絵画で、制作手順が通常と逆のため、完成形から逆算して描き進めます。
ガラス絵に楢重は魅了され、額にも拘り味わい作品を多く残しています。
小出楢重作ガラス絵展示風景
サラサラと軽やかに毛筆を走らせた日本画、挿絵や装幀の仕事、時には銘随筆家として、多方面で才能を発揮し活動しました。
1924(大正13)年楢重は、同世代の新進画家たちと本格的な洋画を学ぶ研究機関を設立し、多くの洋画家を輩出し、関西洋画界を牽引しました。
左から:《街景》小出楢重1925(大正14)年 大阪中之島美術館「大阪の宝」選定作品です、《中之島風景》小出楢重1925(大正14)年頃
大大阪時代の近代都市化が急速に進む中之島界隈を描きました。
1926年(大正15)年楢重は大阪から芦屋の洋館へ引っ越し、アトリエも新築しました。ここでの最後の5年間を画家として裸婦、静物、風景で円熟味を増していきました。
※楢重のアトリエは、芦屋市立美術博物館の庭園に復元され、見学できます。
《卓上静物》小出楢重1928(昭和3)年 京都国立近代美術館
幼き頃より体の弱かった楢重は、室内で描ける画題、つまり裸婦や静物や身近な風景を描きました。
未完で残された芦屋の風景画が絶筆となり、1931年2月に43歳早すぎる生涯を終えました。
左から:《枯木のある風景》小出楢重1930(昭和5)年 公益財団法人ウッドワン美術館 絶筆、《六月の郊外風景》小出楢重1930(昭和5)年 髙島屋史料館
最晩年の楢重の裸婦像傑作7点の展示風景
楢重は、理想的な体型の描くのではなく、長い胴、太い太もも短い脚の日本人の身体をデフォルメして描きました。
日本人の肌の色は西洋人にはない温かみがあると感じ、肌の色合いや滑らかな肌の質感を表現して、日本女性の魅力を描きだしました。
裸女結髪 1927(昭和2)年 京都国立近代美術館
顔を描かない後ろ姿や単純化した顔を描き、普遍的な女性像の意図があったのかもしれません。「楢重の裸婦」「裸婦の楢重」と称され高い評価を受けていました。
展示最後のコレクション特別展示「異邦人のパリ」では、楢重と同時代にパリに集った画家たちから大阪中之島美術館コレクションの特別な4点が展示されています。