ミケランジェロ・ブオナローティ/10分でわかるアート

10分でわかるアートとは?

10分でわかるアート」は、世界中の有名な美術家たちや、美術用語などを分かりやすく紹介する連載コラムです。

作家たちのクスっと笑えてしまうエピソードや、なるほど!と、思わず人に話したくなってしまうちょっとした知識など。さまざまな切り口で、有名な作家について分かりやすく簡単に知ってもらうことを目的としています。

今回は、ルネサンス期に活躍した彫刻家「ミケランジェロ・ブオナローティ」について詳しくご紹介。

「この作品を作った作家についてもう少し知りたい!」「美術用語が難しくてわからない・・・」そんな方のヒントになれば幸いです。

ミケランジェロとは

ルネサンス期の三大巨匠のひとりであるミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)は、イタリア出身の彫刻家、画家です。

13歳の時に彫刻家を目指し、ドメニコ・ギルランダイオ(1448-1494)に師事したミケランジェロ。

その後、ルネサンス期最大のパトロンであるメディチ家と出会い、数多くの大作を残しました。

ここでは代表作をいくつか紹介します。

ダビデ像


《ダビデ像》 1501年-1504年 大理石 アカデミア美術館

旧約聖書に登場する羊飼いの少年ダビデをモデルにした作品《ダビデ像》。世界でもっとも知られている彫刻のひとつです。

本作は、身長3mの大男ゴリアテに石投げて倒すシーンを表現しています。

ミケランジェロ以外にも、多くの芸術家たちより制作されてきた《ダビデ像》。

その表情は誇らしげで少年らしいものが多く、足元には勝利の証であるゴリアテの頭が転がっているものでした。

しかし、ミケランジェロの《ダビデ像》作品は、少年らしい誇らしげな表情よりも、どこか緊張した面持ちをしており、ほかの《ダビデ像》とは違う彫刻表現がされています。

ピエタ


《サン・ピエトロのピエタ》 1498年-1500年 大理石 サン・ピエトロ大聖堂

イタリア語で「哀れみ」「慈悲」という意味である「ピエタ」。

キリスト教美術においては、聖母マリアが亡きキリストを抱き上げるシーンなどで使用されます。

聖母子像は、ミケランジェロが生涯描いたテーマでした。

ほかにも3点《ピエタ》の彫刻作品を残していますが、本作は最初に制作され、唯一完成した作品といわれています。

ミケランジェロとメディチ家について

13歳の時に彫刻家を目指したミケランジェロは、ルネサンス期のイタリア出身画家、ドメニコ・ギルランダイオ(1448-1494)の弟子となります。

ギルランダイオは当時、ルネサンス期最大のパトロン、メディチ家お気に入りの画家でした。

そんなきっかけもあってかミケランジェロは、フィレンツェの大富豪、メディチ家のロレンツォ・デ・メディチ(1449-1492)に才能を見出されます。

フィレンツェにあるメディチ家宮殿で暮らしながら、作品を制作するようになったミケランジェロ。彫刻や建築で才能を発揮するも、ロレンツォの死後は各地を転々としていました。

その後、ミケランジェロは、ローマ教皇ユリウス2世に彫刻の肉体的な美を絵画に取り入れた作品が絶賛され、教皇ユリウス2世からも制作依頼をうけるようになります。

しかし、教皇からの制作依頼は「絵画」ばかりでした。そのため、彫刻家の自分に絵画の仕事ばかり来ることを不満に思っていたといいます。

教皇に気に入られて以降、ミケランジェロは彼に振り回される生活を送るようになります。

例えば、教皇ユリウス2世自身の墓碑をつくるように命じられるも、突然中止を言い渡されたり、準備のために用意した大理石代金も支払われなかったり・・・。

そんな教皇に対し、ついに怒りを爆発させたミケランジェロは、仕事を放り出してフィレンツェへと帰ってしまいます。

傑作《最後の審判》はしぶしぶ描いた!?

ローマ教皇ユリウス2世に振り回され、怒ってフィレンツェに帰ってしまったミケランジェロ。なんとか教皇と和解し、再びローマへ戻ります。

ローマに戻ってきたミケランジェロを待っていた仕事は、システィーナ礼拝堂の天井画でした。

彫刻家という仕事にこだわり、画家ではないと自負していたミケランジェロ。そのため当初は、ラファエロを推薦し断ったのだそう。

しかし、この依頼は教皇によるもので、「彫刻家であって画家ではないのに」と不満を抱えながら、ミケランジェロが受注することとなりました。

 


《最後の審判》 1536年-1541年 油彩 システィーナ礼拝堂

最初はイエス・キリストと十二使徒のみを描く予定でしたが、さらに豪華に!という教皇からの要望により天井全体を埋め尽くす絵画となりました。

しぶしぶと引き受けた仕事でしたが、描き始めてみるとすっかりやる気を見せたミケランジェロ。

天井を埋めつくす豪華な絵をミケランジェロは1人で描いたのだそう!

高い三脚を使ってのぼり、長時間上を向いて描いていたため、上から滴る絵具が目に入り失明したともいわれています。

おわりに

芸術家として順調な人生を歩んでいたように思えたミケランジェロ。

半生を教皇ユリウス2世にさんざん振り回されていましたが、当初の依頼「墓碑制作」は教皇死後、政治情勢の混乱で永遠に中止となったのだそう。

教皇は亡き後もミケランジェロを振り回しました。

システィーナ礼拝堂の天井画が完成後、ミケランジェロは「神のごとき」と評価されていましたが、エピソードを調べてみると彼なりに苦悩があり、人間らしい部分も感じられました。

【参考書籍】
・松浦弘明『イタリア・ルネサンス美術史』河出書房新社 2015年
・池上英洋『いちばん親切な西洋美術史』株式会社新星出版社 2016年
・日本博学倶楽部『「名画の巨匠」 謎解きガイド』株式会社PHP研究所 2016年