塩田千春の作品から他者との「つながり」を考える。圧巻のインスタレーションに注目
2024年10月3日
没後100年 富岡鉄斎/京都国立近代美術館
会場エントランス
幕末の京都に生まれ、さまざまな学問を学びながら、南宋画、やまと絵など多様な流派の絵画も独学した富岡鉄斎(とみおかてっさい)。
「最後の文人画家」と称される鉄斎の没後100年となる展覧会が、京都国立近代美術館で開催されています。
京都では27年振りの大規模展です。
文人画というと古典的なイメージですが、「鉄斎はセザンヌのよう」とヨーロッパやアメリカで遺作展が開かれるなど、海外で高い評価を受けています。
学問に熱心な家に生まれた富岡鉄斎は、幼少から読書を好み勉学に励みます。
国学や漢学を学び陽明学に傾倒、歌人や書家・画家と交流し自らも書画に親しむようになります。
鉄斎の本分は学者です。
学問に携わる者が嗜みとして描いた「文人画」は、中国・北宋時代に盛んになり、日本では江戸時代~明治期に人気を呼びました。
池大雅(いけのたいが)や、俳句で名を知られる与謝蕪村(よさのぶそん)らが有名です。
鉄斎は教員を務めたり私塾を開いたりしましたが、絵を描いて生計の助けとしていました。
富岡鉄斎
「万巻の書を読み、万里の路を行く」
中国の文人の言葉ですが、天性の才が無くとも多くの書物を読んで人格を磨き、旅をして自然に触れることで理想の山水を描くことができるという鉄斎の座右の銘。
長寿だった鉄斎は晩年まで研究を重ね、多くの書画を遺しました。
鉄斎の代表作をご紹介しましょう。
ひときわ異彩を放つ六曲一双の大きな屏風《富士山図》。富士山も、鉄斎が描くとこうなります。
「東洋のセザンヌ」と称されるのも頷けますね。
《富士山図》1898年(63歳)清荒神清澄寺 鉄斎美術館蔵
Ⅰ期~Ⅱ期展示
右隻は雄大な富士の姿、でも左隻にも「えっ、富士山?」と、思う方もいるのではないでしょうか。
これは富士山頂を描いたもの。ごつごつした不気味な岩が印象的です。
鉄斎は実際に富士山頂に登り、その光景を見て描きました。
まさに「万里の路を行く」。ただ見たものを描いただけでなく、他の画家が描いた富士も研究して描いています。
《阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠居栖図》より右隻(阿倍仲麻呂明州望月図)1914年(79歳)
公益財団法人辰馬考古資料館蔵 Ⅰ期展示
《阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠居栖図》より左隻(円通大師呉門隠居栖図)1914年(79歳)
公益財団法人辰馬考古資料館蔵 Ⅰ期展示
右隻左隻の優れた構図が魅力である鉄斎の屏風。豊富な知識に基づいたストーリー性に注目です。
右隻は奈良時代中国・唐に渡った阿倍仲麻呂、左隻は中国・宋に渡った平安時代の僧・円通大師こと寂照が画題。
一見、両者に関係はないようですが、仲麻呂も寂照も帰国を望みながら叶わず異国で没した人物。
画に添えられた賛(さん)を読むことで、作品のテーマがわかるようになっています。「万巻の書を読む」の実践です。
鉄斎の日常をのぞいてみましょう。
文机、筆、眼鏡など鉄斎愛用の品々 通期展示
鉄斎愛用の品が展示されていました。文机の上に置かれたかわいい丸眼鏡。
右端の籠(かご)に入っているのは補聴器です。鉄斎は幼い頃から難聴だったそう。
《墨箱》清荒神清澄寺 鉄斎美術館蔵 通期展示
鉄斎愛用の墨箱です。几帳面な性格だったのでしょうか、きれいに整理されています。
「文人多癖」という言葉を好んだ鉄斎。「癖」とは、強い愛着、興味のこと。
鉄斎は多癖でした。印章のコレクションは有名ですが、今回注目したのはこの煎茶のセット。
《煎茶皆具》大正時代 清荒神清澄寺 鉄斎美術館蔵 通期展示
江戸後期、文人の間では煎茶が盛んでした。
この品は鉄斎が京都の名工たちと制作した煎茶道具。鉄斎が揮毫(きごう*)しています。
*揮毫:毛筆で何か言葉や文章を書くこと。
南宋画、やまと絵から狩野派、琳派、大津絵に至るまで、さまざまな画法を研究した鉄斎は、「まだら」という言葉を好みました。
以下のような言葉を残しています。
「人間は一色ではなく、いろいろな面が混ざってまだらになっているのが良い」
鉄斎は、作品を公募展に出品したり、自ら個展を開いたりはしませんでした。
友人知人のために描いたものが多く、これまで公開されなかった作品もあります。次もそのひとつ。
《土神建土安神社図・椎根津彦像・平瓫図》1879年(44歳)個人蔵 Ⅰ期~Ⅱ期展示
親友の清水焼陶工・四代清水六兵衛のために描いた作品。
三幅とも画賛に『「土」が神聖な力を持っている』とあり、土を扱う陶工・六兵衛の仕事が尊いことを讃えています。
四代清水六兵衛〈水指〉/富岡鉄斎〈絵〉《赤絵瓢形羅漢図水指》明治~大正時代 個人蔵 通期展示
六兵衛が作陶し、鉄斎が絵付けした水指。鉄斎が絵付けした六兵衛作品は多く残されています。
《四代清水六兵衛宛弔辞》1920年(85歳)個人蔵 Ⅰ期~Ⅱ期展示
親しくしていた四代清水六兵衛が亡くなると、鉄斎は六兵衛を追想して歌を詠み、書をしたためました。
自由でのびやかな書です。
《雲龍図》1911年(76歳)鳩居堂 Ⅰ期~Ⅱ期展示
鉄斎の用いる墨は、1663年から今に続く書画用品・香の老舗、鳩居堂が作っていました。
この《雲龍図》は、鉄斎が鳩居堂の墨の使い心地を試すために描いたものです。
《帝室技芸員拝命祝賀詩書》1904年(69歳)京都府(京都文化博物館管理) Ⅰ期~Ⅱ期展示
鉄斎は書も多く遺しました。自由奔放、紙いっぱいに踊るように広がる力強い字が魅力。
《勾白字詩七絶》明治時代(60歳代)清荒神清澄寺 鉄斎美術館蔵 Ⅰ期~Ⅱ期展示
文字のりんかくの中に、花や木、人物を描く趣味が、中国・清の時代に流行しました。
鉄斎は模写を参考に、詩の意味を汲み取り美しい彩色で、楽しい作品に仕上げています。
《鉄叟記事》1914~16年(79~81歳)清荒神清澄寺 鉄斎美術館蔵 Ⅰ期展示
鉄斎の魅力は、大作だけでなくさらりと書いた日常にもあります。
こちらは鉄斎79歳から81歳にかけて書いていた日記。
《漫遊所見図(一部)》1871年(36歳)清荒神清澄寺 鉄斎美術館蔵 Ⅰ期~Ⅱ期展示
何とも楽しそうな人びとは、鉄斎が諸国を旅して見てきたさまざまな姿。当時の風俗がユーモラスに描かれています。
「万里の路を行く」鉄斎は、北海道から鹿児島まで旅しました。
なんとも楽しそうに踊っている人たちを発見。
《盆踊図(一部)》明治時代(60歳代)高島屋資料館 Ⅰ期~Ⅱ期展示
現代の漫画のような軽妙な動き。久邇宮(くにのみや)の命を受けて制作したものです。
鉄斎60歳代の作品ですが、鉄斎は年を重ねるにつれ、より自由に大胆になっていきます。
《朱梅図》1923年(88歳)清荒神清澄寺 鉄斎美術館蔵 Ⅰ期~Ⅱ期展示
鉄斎88歳の作品。なんて力強い筆致でしょう。生命力あふれる梅の木です。
《顧愷之食蔗図》1924年(89歳)布施美術館蔵 Ⅰ期~Ⅱ期展示
晋時代の画家・顧愷之(こ がいし)は、甘く煮たさとうきびを、不味い方から食べていました。
不思議に思った人が訊ねると「だんだんと佳境に入る」と答えたという逸話の画です。
四字熟語「漸入佳境(ぜんにゅうかきょう)」は、この逸話から来ているのだそう。
鉄斎も老いてなお「漸く佳境に入る」そんな心境だったのでしょうか。
鉄斎最晩年の作品のひとつですが、面白いのはその落款(らっかん)。
鉄斎が亡くなったのは89歳、でも落款には「九十歳」とあります。太陰太陽暦の閏月を数えた説と、翌年の正月用の絵をあらかじめ制作したという説があります。
若い頃から中国の古典やさまざまな流派の絵を研究した鉄斎。知識や技法を基に独自の世界を築きました。
「文人画は古い」「堅苦しい」と思っている人にこそ、観ていただきたい展覧会です。
会期中4回の展示替えがありますので、展示作品については美術館公式HPなどでご確認ください。
京都展終了後、富山県水墨美術館、碧南市藤井達吉現代美術館へ巡回します。
*会期中に一部展示替えがあります
第一期4月2日~4月14日/第二期4月16日~4月29日
第三期5月1日~5月12日/第四期5月14日~5月26日