PROMOTION
クロード・モネの世界にひたる。日本初公開作品を含む〈睡蓮〉などを堪能【国立西洋美術館】
2024年11月1日
石岡瑛子 I デザイン/茨城県近代美術館
茨城県近代美術館 外観
日本三名園の一つ・偕楽園から続く千波湖のほとりにある、茨城県近代美術館。
同館では、横山大観や小川芋銭、中村彝など茨城県にゆかりのある作家に加えて、モネやルノワールなどの西洋作家の作品が約4,300点収蔵されています。
現在、茨城県近代美術館史上初の、アートディレクターを取り上げた「石岡瑛子 I デザイン」が開催中。
本記事では、本展の見どころをご紹介します。
デザイナーやアートディレクターとして、広告・舞台・映画など多岐にわたる分野で国際的に活躍した石岡瑛子(1938-2012)。
若かりし頃の石岡瑛子
本展は、石岡のキャリア初期における資生堂やパルコ(PARCO)の代表作をはじめ、アートディレクターとして采配したポスターやCM、グラフィックアートなど、彼女の情熱が刻み込まれた約500点の作品を一気に観られる、またとない機会です。
石岡が常に革新的なヴィジュアルを目指し、表現者として生涯にわたって磨き抜いた「I=私」。
今もなお、鮮烈な輝きを放つ石岡の仕事の本質に迫っていきます。
1961年、東京藝術大学を卒業した石岡は、まだ働く女性が少なかった時代に資生堂宣伝部に就職。デザイナーとして、そのキャリアをスタートさせました。
「資生堂ホネケーキ:ホネケーキ以外はキレイに切れません」雑誌広告(1964年)
Art Director:宮川久 Designer:石岡瑛子 Photographer:横須賀功光 Copy Writer:秋山晶
石岡が資生堂入社3年目に初めてディレクターとして手掛けた作品
その当時、資生堂に出入りをしていた、ファッションデザイナー・三宅一生(1938-2022)など、4人の同世代のクリエイターたちとの出会いによって「私のデザイン」に目覚めた石岡。
イラストが主流だった資生堂の広告に写真を用いたことで、周囲の注目を集めるようになります。
特に世間にセンセーショナルな話題を巻き起こしたのが、資生堂ポスター「太陽に愛されよう 資生堂ビューティケイク」。
「太陽に愛されよう 資生堂ビューティケイク」資生堂ポスター(1966)
これまでの紋切り型の美人像を一新し、当時高校生だった前田美波里(1948-)を起用。生命力と強い意思にあふれる女性像を打ち出しました。
1970年に資生堂を退社し、フリーランスになった石岡が出会ったのがパルコです。当時のパルコは、若者の街というイメージがなかった池袋や渋谷にファッションビルをオープン。街そのものを「劇場」と捉えて、文化イベントなどを展開していました。
2幕「あの頃、街は劇場だったー1970’s 渋谷とパルコ、広告の時代ー」展示風景
渋谷パルコが開業して以降、石岡はアートディレクターとして同社のブランドイメージを築く中心的な役割を担います。
「あゝ原点。」PARCOポスター(1977年)
「あゝ原点。」や「西洋は東洋を着こなせるか」などパルコの一連のキャンペーンにおいて、性や国境、人種を超えて、社会を揺さぶるメッセージとともに、型破りな表現を展開。
世間から「石岡瑛子といえばパルコ」などと言われるほどでした。
「西洋は東洋を着こなせるか」PARCOポスター(1979年)
資生堂やパルコのポスターデザインを通して、新しい生き方や価値観を提示したといえるでしょう。
フリーランスになって以降、石岡が力をいれていた領域がブックデザインです。
1970年代を代表する文芸カルチャー誌『野性時代』では、1974年の創刊から4年にわたりアートディレクションを手掛けるのみならず、自らビジュアル連載ページを担当。
文芸カルチャー誌『野性時代』展示風景
毎号の企画にもアイデアを出すなど、石岡にとって本の仕事は、表紙やカバーのデザインにとどまるものではありませんでした。
そんな石岡にとって究極のブックデザインは自身の作品集『EIKO by EIKO』。
石岡瑛子の作品集『EIKO by EIKO』展示風景
「瑛子による瑛子」と題された同書は、日米で同時出版され、マイルス・デイヴィスやスティーブ・ジョブズなど多くの著名なアーティストや経営者の心をとらえました。
1980年代半ばになると、日本と米国を頻繁に往来しながら仕事をするようになった石岡。
美術監督として携わった映画「MISHIMA」(1985年)は、カンヌ国際映画祭芸術貢献賞、マイルス・デイヴィスのアルバム「TUTU」(1986年)は、グラミー賞最優秀レコーディング・パッケージ賞を受賞するなど、国際的な評価が高まっていきます。
マイルス・ディヴィス「TUTU」レコードジャケット(1986年)
その後、長年交流を続けてきたフランシス・フォード・コッポラ監督と連携し、映画『ドラキュラ』(1992年)の衣装デザインに専念。コスチュームデザイン部門でアカデミー賞を受賞しました。
他者との出会いについて石岡は、「私は昔から”コラボレーション”という英語をマントラのように唱え続けてきた。それはさまざまな才能が出会うことでスパークし、互いに刺激しあって、ひとりでは成し得ない表現を生み出してしまう魔法の融合を意味する」と語っています。
石岡はその後、2012年に亡くなるまで、多くの映画や舞台などの衣装をデザインしています。
彼女が生み出した多くの輝かしいヴィジュアルと刺激的なメッセージは、社会を揺さぶり続けてきました。
物事が急速に変化する中で、誰もが自分を見失いがちになる現代。石岡が仕事において「本当の自分力」を磨き続け、妥協を許さず、確固たる「私」を貫いてきたその姿勢は、私たちに生きる希望を与えてくれるでしょう。
展示の最後には、生前最後のロングインタビューの一部が「石岡瑛子トリビュート映像」とともに紹介されています。
「最後の瞬間まで表現していたい」と語った石岡。まさにその言葉通りの生涯だったといえるのではないでしょうか。
本展を通じて、現在も「石岡瑛子が、ここにいること」を感じ取っていただけたら幸いです。