ルックバック:近代 洋画/三重県立美術館

開国~明治・大正・昭和…洋画家たちの80年間の奮闘【三重県立美術館】

2025年6月4日

開国~明治・大正・昭和…洋画家たちの80年間の奮闘【三重県立美術館】

美術館外観

日本の絵画作品は、「日本画」「洋画」と分けて呼ぶことが多いですよね。日本の洋画の歩みを紐解く展覧会が、三重県立美術館で開催されています。

三重県立美術館は1982年の開館以来、日本近代洋画の収集に力を入れてきました。今回のコレクション展は、その成果ともいえる展覧会。

同館が収蔵する珠玉のコレクションから選び抜かれた約100点の作品を通し、開国以来の洋画家たち80年間の奮闘を振り返ります。

西洋から油彩画がやってきた!


入口パネル

明治開国以降、日本は西洋に追いつこうと政府主導で西洋の技術を積極的に取り入れました。その動きは文化にも広がり、画家たちも貪欲に西洋の油彩画を学びました。

このポスターのメインビジュアル、川村清雄《梅と椿の静物》は、日本画で使われる絹本に油絵具で描かれた作品。洋画黎明期、画家たちは見よう見まねで新たな表現方法に取り組みました。

試行錯誤の中、日本独自の「洋画」がどう生まれていったかを追います。

洋画黎明期 官製の美術教育


浅井忠《小丹波村》1893年

日本洋画の先駆者として知られる浅井忠。明治政府が美術教師として招いたイタリアの画家・フォンタネージから学びました。

フォンタネージは、自然主義的な風景画や農民画を写実的に描くバルビゾン派の流れを汲む風景画家。村の日常風景を描いたこの作品も、その影響を大きく受けています。


岡田三郎助《岡部次郎像》1898年

岡田三郎助は国費留学生としてフランスに留学し、ラファエル・コランの指導を受けました。

コランは古典を踏襲しながらも印象派の手法を取り入れた画風。日本の近代洋画の父といわれた黒田清輝もコランから学びました。


左:児島虎次郎《日本服を着たる白耳義(ベルギー)の少女》1911年 右:安井曾太郎《裸婦》1910年

児島虎次郎はベルギーで学び、安井曾太郎はフランスに留学してセザンヌに傾倒しました。右の作品「裸婦」からはセザンヌの影響が色濃くみられます。

洋画黎明期のこの時代、画家たちは海外のさまざまな作家や作品から思想や技術を取り入れ、日本の洋画へと消化していったのです。

「緑色の太陽」大正デモクラシー


左:『スバル』第2年第4号[復刻版]1910年 右:『第1回ヒユウザン会展覧会目録』[復刻版]1912年

時代は進み、大正デモクラシーの自由闊達な時代がやってきます。

「人が『緑色の太陽』を画いても僕はこれを非なりと言わないつもりである。僕にもそう見える事があるかも知れないからである。」

詩人で芸術家の高村光太郎が雑誌『スバル』に発表した芸術評論は、画家たちに大きな影響を及ぼしました。


村山槐多《自画像》1916年

暗い画面の中で鋭く光る眼光と力強い筆致が印象的な自画像は、22歳という若さで亡くなった村山槐多の作品。早熟で多感な異色の画家で、詩人でもありました。

短い人生を奔放に駆け抜けた槐多。高村光太郎はその死を悼んだ詩の中に「強くて悲しい火だるま槐多」という一節を残しています。


岸田劉生《麦二三寸》1920年

「麗子像」で知られる岸田劉生の作品。麦畑の傍らにポツンと立っている赤い着物の女の子が娘・麗子です。

高村光太郎らと表現主義的なフュウザン会を結成、その後写実を極めた草土社で活動しました。この時代の画壇に大きな影響を与えた画家です。


関根正二《関根正二商品画会 案内原稿》1918年

これは結核のため20歳で亡くなった関根正二が「画会」を開くために書いた案内原稿。

「材料が不足しているため、思うように製作ができないのでこの度画会を開きました。どうか入会を願います」

情熱があってもお金がない・・・。若い作家たちの苦労が伺えます。

パリへ渡った若き画家たち


左:荻須高徳《街角(グルネル)》1929-30年 右:佐伯祐三《サンタンヌ教会》1928年

1920年代、芸術の都パリには世界中から芸術家たちが集まります。エコール・ド・パリと言われる時代です。

画集や雑誌から学んでいた日本の若手画家たちも、パリで学ぼうとフランスへ渡りました。


里見勝蔵《裸婦》1930年

パリに渡った日本人画家はただ西洋の技術を写し取るだけでなく、異邦人である自分を冷静に見つめ、日本人としての洋画を模索します。

佐伯祐三や藤田嗣治をはじめとした画家たちが独自の画風を磨きました。

日本洋画の成熟期


藤島武二《大王岬に打ち寄せる怒涛》1932年

そして日本の洋画は成熟期を迎えます。

藤島武二がフランス留学したのは38歳と遅い頃でしたが、帰国後は精力的に制作や後進指導にあたり、60歳代に入ると風景画に新境地を開きました。


左:梅原龍三郎《霧島》1936年 右:梅原龍三郎《山荘夏日》1933年

現在、洋画の巨匠と謳われる梅原龍三郎、安井曾太郎らが独自の画風を確立したのもこの時代。すぐれた作品が多く生み出されました。

戦争の影


左:村井正誠《支那の町 No.1》1938年 中央:吉原治良《雪(イ)》1937年 右:山口長男《池》1936年

大正から昭和、近代化で活況に湧く日本に徐々に戦争の影が忍び寄ります。

この時期、海外からもたらされたのがシュルレアリスムと抽象絵画。新たな表現は若い画家たちの心を捉えますが、これら前衛的な絵画は軍国主義から激しい弾圧を受けます。

軍部が推し進めたのは、勇壮な戦争画でした。物資不足で画材が配給制になっても、戦争画を描く画家には優先的に配布されたそうです。

戦後 再び自由な表現へ


松本竣介《建物》1947年

長く苦しい戦争を生き延びた画家たちは、再び自由な表現を取り戻していきます。

病気で聴力を失い徴兵されなかった松本竣介もそのひとり。抽象的な画風へと大きく変化していくその矢先、病のため亡くなります。命がつながっていればどんな画風になったのでしょう。急逝が惜しまれる画家です。


会場風景

美術館のコレクション中心の展覧会は、そのミュージアムの特徴や力を入れている分野に深く触れられる機会。

企画性がウリの特別展もいいですが、こうしたコレクション展に足を運んでみれば、きっと新たな発見があることでしょう。

三重県立美術館では、江戸時代の奇想の絵師・曾我蕭白の作品や、現代具象彫刻界を代表する作家・柳原義達の作品も常設で観賞できますので、お見逃しなく。

美術館併設のテラスレストランで、緑鮮やかな庭を見ながらひと休みもおすすめですよ。

Exhibition Information

展覧会名
ルックバック:近代 洋画
開催期間
2025年4月26日~7月6日
会場
三重県立美術館
公式サイト
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/