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2024年11月1日
越後屋開業350年記念特別展 三井高利と越後屋/三井記念美術館
三越日本橋本店の隣に三井記念美術館はあります。
三井家が江戸時代より収集してきた美術品を4000点ほど所蔵し展示しています。
現在、三井記念美術館では三井越後屋350周年を記念した展覧会「三井高利と越後屋―三井家創業期の事業と文化―」が開催中です。
本展では、三井グループの創始者、三井高利(みつい たかとし、1622-1694)と三井家にまつわる美術品や三井家の事業発展のようすがわかる品を展示紹介します。
三井事業の元となる越後屋と三井グループ創始者、三井高利について紹介します。
三井高利は、高俊(たかとし)の末っ子として伊勢(現・三重県)に生まれました。
高利の祖父である越後守高安(えちごのかみたかやす)は武士として大名、六角佐々木氏に仕えていたものの、織田信長に敗れてしまいます。
その結果、近江(現・滋賀県)から伊勢の地に移住。伊勢の地で、高安の息子である高俊と妻の殊法(しゅほう)は、酒や味噌の商売を始めました。
店名は高安の武士名が越後守であったことに由来し、越後殿の酒屋と呼ばれるように。
その後、松坂城主の指示により「越後屋」と名乗るようになりました。
14歳になった高利は兄の俊次が営む店で働くために江戸へと上京します。
店は繁盛し、18歳で江戸店を仕切るようにまでなるのですが、28歳の時に母親の世話を見るために松坂へ戻ることに。
高利は52歳のときに、呉服店「越後屋」を開業します。
この呉服店は後に、現在の三越へと繋がっていきました。
1673年8月、三井高利が開業した越後屋。
当時の呉服店は期末に一括で支払う方法が一般的でしたが、高利は店頭販売・現金払いを導入。
この新しい試みは多数の顧客確保に成功し、越後屋は繁盛しました。
その後、両替業も始め、最初に開業した地である江戸本町一丁目から現在地の駿河町に移転。
江戸、大阪、京都の3都市に店舗を構え、越後屋は発展していき、幕府の呉服御用や為替業を請け負うまでになります。
《江戸本店本普請画図面》1832年 三井文庫
江戸本店の絵図、「越こし絵図」と言われる立体模型。建物内部が良くわかります。
模型を実際に見ると、建物はかなり広いのがわかり、江戸本店が賑わっていたようすが伝わってきます。
《江都京都浪花三店絵図》19世紀 三井文庫
こちらは江戸、大阪、京都それぞれの店舗が描かれた絵図。江戸と大阪は販売店であったため、大きな建物に人びとでにぎわっているようすが描かれています。
京都店は仕入れ兼事業本部として使用されていました。
京都店の資料は非常に少なく、こちらの絵図は店頭のようすがわかる貴重な資料だそう。
また、京都店では海外から長崎に持ち込まれた輸入衣料品なども扱っていました。
《毛類直打帳》18-19世紀 三井文庫
ものすごい量の紙が束ねられた記録帳には当時、取得した毛織物の日付や分量、価格などの記録が記されています。
記録の文字の横には、実際の毛織物の切れ端が貼ってあります。切れ端を貼ることで色味もわかるように工夫されているのがわかります。
三井家の事業の発展とともに収入に余裕ができ、三井各家は文化活動にも力を入れるようになりました。
とくに急スピードで事業発展した享保から元文年間(1716〜1741)にかけては、多くの茶の湯など名物茶道具を収集するようになりました。
これらの収集された名物茶道具は、三井家の茶会でしばしば利用されていたといいます。
ほかにも、北三井家二代の三井高平(1653-1737)が自作した茶道具や竹一重切花入れも展示しています。
三井高利の祖父、高安が伊勢に移り住んでから、三井家は伊勢神宮との関りが深くなり、度々参拝していたそう。
そうしたことから、三井家は伊勢神宮への信仰が深かったと言われており、そのようすのわかる展示もあります。
三井家の歴史と発展のようすを体系的に紹介する本展。
現在まで発展するのにどのような経緯があったのか展示品を通して知ることができます。
展示室には一部撮影可能作品があったり、AIを用いてくずし字を解読できるアプリなどの案内もありました。(現在はiPhoneでのみ使用可能)
是非、貴重な資料を解読したり、撮影してみてはいかがでしょうか。
予約なしで入館できますが、1階入口で消毒と検温をお願いします。
37.5度以上の熱がある方は入館をご遠慮いただきます。入館にはマスク着用のご協力をお願いします。
また、展示室内の混雑を避けるため入場制限を行う場合があります。