円空―旅して、彫って、祈って―/あべのハルカス美術館

ほほえみとパワーの”円空仏”をあべのハルカス美術館で堪能【読者レビュー】

2024年2月20日

あべのハルカス美術館開館10周年記念円空―旅して、彫って、祈って―

「円空仏」で知られる円空(1632-1695)は、17世紀の江戸時代の修験僧です。

本展のポイントは大きく3つ。

①あべのハルカス美術館だけの単館開催
②「旅の始まり」「修行の旅」「神の声を聴きながら」「祈りの森」「旅の終わり」の5章構成で、円空の初期から晩年まで、76件160体の円空仏でその生涯を辿ります。
③「円空さん」の生涯を伝える絵画や文書、書籍などで、その人となりを探ります。


大森旭亭筆 《円空像》一幅 1805年(文化2)頃 岐阜県・千光寺

壬申年(寛永9(1632))美濃国で生まれたと円空は自分で記していますが、彼の生涯について同時代資料は残っていません。

修験僧であった円空は各地を遊行し、神仏を彫ることも修行の1つでした。

生涯に12000体の仏像を彫ると誓ったといわれる円空、現在も5000体以上の円空仏が確認されています。


《青面金剛神立像》背面の墨書 一躯 1691年(元禄4)60歳 個人蔵

像の背面には円空自身が墨書を記しており、像自体が円空を語り、表しているのではないでしょうか。


伴蒿蹊著『近世畸人伝』1790年(寛政2)京都府立京都学・歴彩館
円空が亡くなって100年くらい経てから円空について書かれた書籍です。


《大日如来坐像》一躯 1665年(寛文5)頃 34歳頃 三重県・浜城観音堂

幼い頃に出家した円空の今日伝わるもっとも古い作品は数え年32歳のときに彫ったものとされています。最初期の円空仏は素直で丁寧な彫りの造形です。

寛文11年(1671)円空は法隆寺により、『法相中宗血脈』を授けられます。奈良では吉野大峰山・笙の窟(しょうのいわや)で越冬参籠も修め、修験行者としての修行も重ねていきます。


左から《観音菩薩立像》一躯 1674年(延宝2)43歳 三重県・少林寺、《護法神像》一躯 1674年(延宝2)43歳 三重県・少林寺

手にした材の中に既に彫られるべき像が見え、最小限の手を貸しているだけの造形に立ち尽くてしまいました。
円空の造形はじっくり丁寧にスベスベからゴツゴツと大胆な彫りへと変化していきます。


《大般若経(巻第584)》1674年(延宝2)三重県・立神自治会
柔らかなタッチで描かれた見返し絵、蓮弁に人が載った意匠の可愛い印が捺されているところもお見逃しなく。

志摩では、その地に伝わる大般若経を補修し、巻子を折本に改装して見返し絵を描きます。


《千面菩薩像》1024躯のうち30躯、《千面菩薩厨子》一基1676年(延宝6)頃 45歳 愛知県・荒子観音寺

小さな千面菩薩たちは、像を彫ってできた木端の様な材に目鼻と手なのか衣紋なのか最小限の表現を刻んでいます。


左から《蔵王権現立像》一躯1680年(延宝)頃) 49歳頃 埼玉県・観音院、《役行者倚蔵》一躯1680年(延宝)頃) 49歳頃 埼玉県・観音院
蔵王権現は、役行者が大峰山上ヶ岳で感得したと伝える尊格で、本像は現存する唯一の蔵王権現像です。

修験僧の円空は、修験道の開祖と言われる役行者像もたくさん残しています。

48歳の円空は白山神の宣託を聴き、それは仏像制作への更なる後押しとなったはずです。同年、滋賀県園城寺においての尊栄から『仏性常住金剛宝戒相承血脈』を授けられ天台宗寺門派の密教の法を継ぐ僧であることを認められます。


《不動明王像及び二童子像》左から:制吒迦童子立像、不動明王立像、矜羯羅童子立像 3躯 1682年(天和2)頃 51歳頃 栃木県・青瀧寺

憤怒の不動明王のお顔はまるで飛鳥仏のように柔和な表情です。背負う火焔光背は木を割った自然木そのままに不動明王像の半分を占め一体化しています。三尊とも背面は粗く削られただけの半面像で、矜羯羅童子はハーイ!と手を挙げているようです。

飛騨千光寺の住職舜乗(しゅんじょう)の人となりにも惹かれてか、意気投合した円空はしばしここに滞在し、彫刻に没頭したもっとも充実した時期でした。

地元では愛され続けてきた円空仏ですが、近代の美術史の中では忘れ去られていました。彫刻家・橋本平八が昭和6年に千光寺で円空仏を発見し再び注目を集めるようになりました。


《両面宿儺坐像》一躯 1685年(貞享2)頃 54歳頃 岐阜県・千光寺 と背景は《観音三十三応現身立像》の一部 1685年(貞享2)頃 54歳頃 岐阜県・千光寺

『日本書紀』にも載る1つの胴体に2つの顔を持つ異形の像「宿儺(すくな)」を円空は独自の解釈で背面の武人の顔を正面の顔の横に出し、斧を手に、光背はグリグリ文のようで、ノミ跡荒く仕上げています。

後ろにずらりと並ぶ《観音三十三応現身立像》は、近隣の村人が病気の折に借り出して平癒を祈ったそうです。


《金剛力士(仁王)立像(吽形)》を背面から撮影した展示場風景
『近世畸人伝』の挿絵そのままに、立木仏であったかもしれない金剛力士像の背面には、大きな節がいくつも残っています。


手前:《賓頭盧尊者坐像》一躯 1685年(貞享2)頃 54歳頃 岐阜県・千光寺、《護法神像》2躯1685年(貞享2)頃 54歳頃 岐阜県・千光寺
《護法神像》2躯は、1本の木を半分にして、さらにそれを半分に割って木裏を前面に作られています。

患った所を撫でられてきた「撫で仏」賓頭盧(びんずる)さんはツルツルになっています。


《柿本人麻呂坐像》一躯  1685年(貞享2)頃 54歳頃 岐阜県・東山新明神社

円空は和歌を詠み、仏像制作への思いも込めた歌もあり、「歌聖」と称された万葉歌人柿本人麻呂像も各地に残しました。

円空最後の10年


右から《善財童子立像・護法神立像(矜羯羅童子立像・制吒迦童子立像)》1684年(貞享元)頃 53歳頃 岐阜県・神明神社、《不動明王立像》一躯 1685年(貞享2)頃 54歳頃 岐阜県・素玄寺

元禄2年(1689)円空が再興した弥勒寺が天台宗寺門派の末寺に加わることを園城寺から許されます。


《十一面観音菩薩及び両脇時立像》左から:善女龍王立像、十一面観音菩薩立像、今上皇帝立像 3躯 1690年(元禄3)59歳 岐阜県・桂峯寺

《今上皇帝立像》の背面には「當国万仏十マ仏作也」と墨書が記され、12万仏を造ると誓った内の10万仏を達成したとの説もあるそうです。

本展最後は、なんと穏やかな優しいお顔でしょう。円空晩年の到達点です。


《十一面観音菩薩及び両脇侍立像》左から:善財童子立像、十一面観音菩薩立像、善女龍王立像 三躯 1692年(元禄5)61歳 岐阜県・高賀神社
一本の丸太を3つに割り、十一面観音立像の台の上に善女龍王像と善財童子像を載せて彫刻面を合わせると元の丸太が復元できるのだそうです。

元禄8年(1695)64歳の円空は弥勒寺を弟子に譲り、弥勒寺の傍らを流れる長良川の岸辺で亡くなったと伝えられています。自然に委ねた静かな最期ではなかったでしょうか。

音声ガイドナビゲータ-は声優の諏訪部順一さんでとても聴きやすくお薦めです。

Exhibition Information