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ハローキティ誕生50周年!「キティとわたし」を紐解く展覧会
2024年11月21日
記憶:リメンブランス―現代写真・映像の表現から/東京都写真美術館
東京都写真美術館で「記憶:リメンブランス―現代写真・映像の表現から」展がはじまりました。
個人の体験や感情に基づく「記憶」を、ひとはどのように写真や映像をつかって捉えようとしてきたのでしょうか?
多様なアプローチで記憶を捉えることに挑んだ、国内外7組8名のアーティストの新作、日本未公開作を含む70余点から構成される展覧会です。
本展の参加作家は、篠山紀信、米田知子、グエン・チン・ティ、小田原のどか、村山悟郎〔コンセプト:池上高志(サイエンス)+ 村山悟郎(アート)実装:Alternative Machine + Qosmo, inc.〕、マルヤ・ピリラ、 Satoko Sai + Tomoko Kurahara。
多様な作品のなかから、4組のアーティストの作品をご紹介します。
篠山紀信は、国内外で高い評価を受け、今年1月に惜しまれつつ逝去した戦後日本を代表する写真家。
本展は、篠山紀信が写真を、写真家・中平卓馬が文章を担当した「アサヒカメラ」誌上の連載『決闘写真論』(1976 年)に掲載された《誕生日》からスタートします。
「《誕生日》ぼくの誕生日は、一九四〇年一二月三日。母親は、プレゼントはくれなかったが、毎年この日になると街の写真館へぼくを連れてゆき、記念写真を撮ってくれた。」
こうした文章に続くのは、篠山紀信自身が被写体となり、2歳から13歳までの間に写真館で撮影された12枚の写真です。
この写真が撮影されたのは、1942年〜1953年までという戦中〜戦後の時代。誕生日プレゼントに変えて、毎年写真館でその姿を残す意味も考えさせられます。
1年ごとに撮影された写真を観るうちに、観る側も、思わず自分の家族を思い出してしまうかもしれません。
とてもプライベートな写真も、作品化されることで、時代や家族の思い出を含んだ集団的な「記憶」へと変化していくようです。
このほか、1976年の第37回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展で発表された「家」シリーズや、東日本大震災のようすを収めた「ATOKATA」のシリーズもシリーズで展開されています。
あるがままを捉えたその風景は、わたしたちの中にある記憶と繋がっていくようです。
篠山紀信《家 鹿児島県川辺郡》1975年 東京都写真美術館蔵
続く展示室には、透き通るような美しい大判写真が並びます。
米田知子作品 展示風景
米田知子は、20世紀の「記憶」と「歴史」に焦点を当て、土地や物に宿る歴史的真実と、その背後にある記憶を引き出す写真を制作する写真家です。
今回の展示では、東京都写真美術館の収蔵作品に未発表の作品を加えて紹介しています。
米田知子《アイスリンクー日本占領時代、南満州鉄道の付属地だった炭鉱のまち、撫順》2007年 東京都写真美術館蔵
どの写真も、とても静かで美しい風景を捉えたように見えます。
ところが、そのタイトルを読むと、《プラットフォームー伊藤博文暗殺現場、ハルビン・中国》や《アイスリンクー日本占領時代、南満州鉄道の付属地だった炭鉱のまち、撫順》など、歴史的な背景を持った場所であることに気づきます。
米田知子《(未)完成の風景Ⅰ》《(未)完成の風景Ⅱ》2015年 / 2023年 作家蔵
ことばを通じ、歴史の授業で習ったことやテレビで耳にしたニュースなどの「記憶」が目の前の風景と結びついていく作品です。
一方で、個人の中にある「記憶」にフォーカスした作品も紹介されています。
個人の「記憶」に焦点を当てたのは、フィンランドのアーティスト マルヤ・ピリラと、日本の作陶ユニットSatoko Sai + Tomoko Kuraharaです。
3人は、2010年にフィンランドの都市トゥルクに滞在し、高齢者たち9名へのインタビューを行って作品を制作しました。
マルヤ・ピリラ、Satoko Sai + Tomoko Kurahara作品 展示風景
マルヤ・ピリラは、部屋の一方に小さな穴を開けることで外の景色を壁に映し出す「カメラ・オブスクラ」の手法を活用し、9名の被写体それぞれの部屋に外の風景を取り入れてポートレートを撮影。
マルヤ・ピリラ《カメラ・オブスクラ / エヴァ&エーロ》2011年 作家蔵
一方、Satoko Sai + Tomoko Kuraharaは、彼らのアルバムの写真を複写し、その写真を器の内側に転写した陶器の作品を制作しています。
Satoko Sai + Tomoko Kurahara《ベッカ》2011年 作家蔵
それぞれの作品に表現されたのは、仕事や家族のことなど、「歴史」には残らないささやかな個人の「記憶」。
作品シリーズの「インナー・ランドスケープス」というタイトルは、目には見えない、個人の内部に閉じ込められた記憶の中の風景も想起させます。
作品制作プロセスの「記憶」に焦点を当てたのは、画家・村山悟郎。今回、東京大学教授の池上高志、Qosmoとの協働で制作を行いました。
1年をかけて600枚を超えるドローイングを描きながらその過程を記録し、AIを通じて新しい表現を試みています。
村山悟郎作品 展示風景
展示では、村山のオリジナル作品と、その筆致をランダムに組み合わせた絵画とを比較し、2人の人格のAIに議論をさせています。
議論の中では、人の創造性や複雑さにも触れつつ、そうした「人間らしさ」に疑問も呈しているようにも感じられます。
村山悟郎《千年後のドローイングのために -人間・人工知能・人工生命》2023年-2024年 作家蔵
さらに、その筆致をAIに学習させてAIによって新しい作品をつくりだす試みも。
作品だけでなく、鳥の進化系統もあわせて学習させることで、もとの作風に近い作品を生み出すだけでなく、オリジナリティも付与されていきます。
村山悟郎《データのバロック – 機械学習のための千のドローイング》2023年 作家蔵
今後は制作の「過程」も学習させていく予定だといいます。画家の作風は「一連の制作プロセスの記憶をともなっている」※1ものであり、「想像性は手順の中に宿る」※1としたとき、プロセスの記憶を持ったAIはどのような創造性を持つのでしょうか。
また、人はそこからどのように記憶を揺るがして新しい作品を創っていくのか、「記憶」を起点とした新しい創造への可能性も感じられます。
「記憶」と「歴史」は、似たもののようにも感じられますが、客観的な知識としての「歴史」に対して、「記憶」はその人の体験や感情にもとづいた、とても個人的なものであることが伝わってきました。
小田原のどか《像と記憶の手ざわり:上野彦馬の写真、彫刻、墓、記念碑》東京都写真美術館所蔵作品をもとに構成
今回の展覧会の起点となる『決闘写真論』《誕生日》の項では、現代社会では「知」が優先され、知識と現実の手触り感との間に隔たりができてしまっている中、「写真」はその手触り感を取り戻す手段となる可能性を中平卓馬が示唆し、篠山紀信も写真とプライベートな部分とを繋ぎ合わせる視点を提示しているように感じられました。
写真や映像を使った多様なアプローチを通じて、個人的な「記憶」を捉え、共有できる可能性も感じられる展覧会です。
※1 「iHuman:AI時代の有機体-人間-機械」河本 英夫, 稲垣 諭 編著(学芸みらい社)第3章「手順:身体と質料をそなえた人間の回路」/ 村山悟郎 より