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クロード・モネの世界にひたる。日本初公開作品を含む〈睡蓮〉などを堪能【国立西洋美術館】
2024年11月1日
「10分でわかるアート」は、世界中の有名な美術家たちや、美術用語などを分かりやすく紹介する連載コラムです。
作家たちのクスっと笑えてしまうエピソードや、なるほど!と、思わず人に話したくなってしまうちょっとした知識など。さまざまな切り口で、有名な作家について分かりやすく簡単に知ってもらうことを目的としています。
今回は、クロード・モネと並ぶ印象派の巨匠「ピエール=オーギュスト・ルノワール」について詳しくご紹介。
「この作品を作った作家についてもう少し知りたい!」「美術用語が難しくてわからない・・・」そんな方のヒントになれば幸いです。
クロード・モネと並ぶ印象派の巨匠、ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841₋1919)。彼の作品といえば、柔らかい色彩で描かれた裸婦や少女たちの生き生きとした姿が特徴的です。
ルノワールが描いた愛らしい女性たちの姿は、日本でも大人気!
とくに「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」(2018年/国立新美術館)では、絵画史上でもっとも有名な少女像ともいわれる《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)》が来日したことで賑わいました。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)》1880年
フランスの労働者階級に生まれたルノワールは、真面目でよく働く、職人気質な若者でした。
磁器工房の絵付けで、絵に関する才能を発揮していましたが、産業革命の影響で工業化が進んだことにより手仕事の需要が減り、別の道を模索しなければならなくなりました。
産業革命の影響により、ルノアールは大の機械嫌いになったそう! その後、職を失った彼はカフェの壁の装飾や、扇子などの日用品に絵付けする仕事など、さまざまな仕事をしました。
20代になり、ルノアールは本格的に画家を目指すようになり、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)とシャルル・グレールのアトリエに通い始めます。
当時、月謝が安いことで有名だったグレールのアトリエ。ここでルノアールは生涯の友と呼べるクロード・モネや、アルフレッド・シスレーなど、のちに印象派として活躍する画家たちと知り合います。
ちなみにこの画塾は、月謝の安さがあだとなったのか、のちに経営困難となり閉鎖に追い込まれてしまいました。
ファンタン=ラトゥール《バティニョール地区のアトリエ》1870年
彼らはサロンへの入選を目指しますが落選が続き、ルノワールがようやく初入選を果たしたのは1864年のことでした。
その後、1874年の第1回から1877年の第3回までの印象派展に参加し、現代生活をテーマとする作品を出品。1879年のサロンで成功を収めると、次第に印象派の運動から距離を置くようになりました。
晩年、ルノワールは長年わずらっていたリウマチの症状が悪化し、もう一歩も歩けない状態になってしまいました。そこで彼の家族は、当時の名医にリウマチの特別治療を依頼。約2年間、歩けなかったルノワールがなんと、奇跡的に歩けるようになりました!
しかし、すぐに車いすに崩れる落ちるように座り込むと「歩くよりも絵が描きたい」と言ったそう。
ルノワールは、1919年12月2日に亡くなりましたが、その最期の言葉も「パレットを寄こしなさい」とうわごとを言いながら息を引き取ったといいます。享年78歳でした。
パリっ子の楽しみを豊かに表現した代表作!
今を生きる人間を印象派のタッチで描いたルノワールの代表作《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》。当時、流行していたファッションに身を包んだ若者たちが、楽しそうに踊っています。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》1876年
本作のタイトルであるムーラン・ド・ラ・ギャレットは、モンマントルに誕生したダンスホールの名称です。
当時のパリっ子たちにとって、週末にダンスホールやカフェに足を運ぶことはささやかな楽しみのひとつでした。
印象派の画家たちは、自然の光をいかに絵で表現するかに関心を持っていました。しかし、ルノワールは人物や衣服を描くことを好んでいたといいます。
本作は、現地でスケッチしたあと、アトリエで大きなカンバスの上で仕上げたそう。木漏れ日の下で休日を楽しむ男女が、印象派のタッチで的確に表現されています。
印象派の仲間たちの友情は厚く、なかなかサロンに入選することができず、世間に認められない厳しい時代も、協力してグループ展を開くなど、困難を乗り越えてきました。
その中でも、ルノワールはモネととても仲が良い友人でした。ルノワールは、実家で食事をした後は、いつもありったけのパンを服のポケットに詰め込んで、お腹を空かせているモネに持って帰っていたといいます。
その他にも、ちょっとでも絵が売れて収入があると、2人して画材屋へ行ったり、一緒に南仏まで旅行に行くなどたくさんの仲良しエピソードがあります。
度重なるサロン落選も、モネが励ましてくれたから頑張れたそう。このように助け合ってきたから、印象派の2大巨匠として後世に知られるようになったのかもしれませんね。
《シャルパンティエ婦人とその子どもたち》は、当時の有名な出版事業者であるジョルジュ・シャルパンティエに依頼されて制作された油彩画です。のちに、シャルパンティエ一家は、ルノワールのパトロンとなります。
1979年のサロンに出品し、注目を集めて高い評価を受けた本作。ルノワールの出世作となりました。
本作のモデルであるシャルパンティエ婦人は、パリの社交界でも中心的な人物でした。この絵の成功後、ルノワールのもとに、大勢のお金持ちから肖像画の依頼が来るようになったといいます。
印象派で有名な画家の1人である、ピエール=オーギュスト・ルノワールについて詳しく紹介しました。
ルノアールの作品もモネ同様に、黒色が使われていません。
彼は、バルビゾン派の画家であるディアズに会い、色彩についてアドバイスを受けました。それ以降、黒を使わずに鮮やかな純色のみを出す「虹色のパレット」と呼ばれるルノアールの色づかいは、印象派の基本となりました。
印象派の絵画を鑑賞する際は、その色づかいにも注目してみてください。
次回は、「新印象派」について詳しくご紹介していきます。お楽しみに!
【参考書籍】
・早坂優子『巨匠に教わる 絵画の見かた』株式会社視覚デザイン研究所 1996年
・早坂優子『鑑賞のための 西洋美術史入門』株式会社視覚デザイン研究所 2006年
・早坂優子『101人の画家 生きてることが101倍楽しくなる』株式会社視覚デザイン研究所 2009年
・杉全美帆子『イラストで読む 印象派の画家たち』株式会社河出書房新社 2013年