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2024年11月21日
「10分でわかるアート」は、世界中の有名な美術家たちや、美術用語などを分かりやすく紹介する連載コラムです。
作家たちのクスっと笑えてしまうエピソードや、なるほど!と、思わず人に話したくなってしまうちょっとした知識など。さまざまな切り口で、有名な作家について分かりやすく簡単に知ってもらうことを目的としています。
今回は、西洋美術のなかでもNo.1の人気を誇るジャンル「印象派」について詳しくご紹介。
「この作品を作った作家についてもう少し知りたい!」「美術用語が難しくてわからない・・・」そんな方のヒントになれば幸いです。
日本国内でもっとも人気のある「印象派」。ロマン主義やバルビゾン派、フォーヴィスムなどと言われてもピンとくる方は少ないですが、印象派と言われると「あの絵のことね」とすぐ連想される方は多いのではないでしょうか。
印象派を代表する画家たちのクロード・モネやポール・セザンヌ、フィンセント・ファン・ゴッホなど・・・もし、オークションに出品されたら、間違いなく高額で落札されることでしょう。
そんな特別な存在の印象派ですが、彼らにも実は苦労の時代がありました。
当時のフランスには、サロンと呼ばれるコンクールのようなものがあり、そこに作品を出品して当選すると、画家として認められるといった仕組みになっていました。
印象派の画家たちももちろん、このサロンに出品しますが・・・なんと落選ばかり!
印象派の画家たちが描いた作品は、当時の美術界ではタブーとされるものが多かったのです。その理由としてまず、絵画にはジャンルによるヒエラルキー(階級分け)がありました。
1番とされていたジャンルは神話や歴史などを描いた歴史画(物語画)と呼ばれるもので、2位は肖像画、3位は静物画だったと言われています。
歴史画が1番とされているのは、神さまに似せて創られた人間こそが、命あるもののなかで、もっとも優れているからであり、さらに複数の人物を再現して歴史や物語を描いた方が、単なる肖像画よりもスゴい! という考え方によるものだそう。
これは、フランスの王立アカデミーの学長シャルル・ド・ブランが考えた理論です。そんな理論でこり固まったフランスの美術界に、絵画の「お約束」を無視した問題作が登場します。
絵画の近代化を描いた「問題作」
エドゥアール・マネ《草上の昼食》1863年
1863年、サロンに落選した作品の「落選者展」が開催されました。訪れた多くの人びとは、マネが描いた《草上の昼食》を観て、不道徳と非難。たちまち大スキャンダルとなりました。
そもそも、当時のキリスト教では裸体画はタブーなものであり、もし描くのであれば、神話や聖書など限定的な主題に限って許されていたのです。
しかも、本作に描かれている裸婦は、同時代の娼婦だと言われています。格式あるサロンに、こんなにも不道徳な作品を応募するなんて! というのが当時の人びとの感覚だったのです。
本作の出品により、マネはたちまち当時の美術界の「反逆者」となるわけですが、アカデミックな絵画を求めるサロンに不満を持つ若い画家たちは、彼の姿に勇気を与えられます。
面倒見のいいマネのもとには、モネやピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレーなどの若い画家たちが集い、その流れから印象派が生まれました。
①印象派の父、エドゥアール・マネ
エドゥアール・マネは1832年、パリの中心部で高級官僚の息子として生まれました。名門学校に通うも落第点ばかりで、デッサンしか褒めてもらえない子どもだったといいます。
エドゥアール・マネ《オランピア》1863年
サロンで成功をおさめ、順当に出世することを夢見ていたマネ。しかし、《草上の昼食》など彼の出品する作品は、どれも当時の人びとからは新しすぎて、思うような評価は得られませんでした。
それどころか《オランピア》はサロンに展示されると、人びとが作品の前で押し合いへしあい、怒り叫びながら絵を破壊しようとする人まで現れるなど、大変な騒ぎになったそうです。
描かれた裸体の女性が女神や聖女ではなく、鑑賞者を誘うようなまなざしを向けるただの娼婦だったことが、人びとの怒りの原因でした。
ちなみにタイトルの「オランピア」は、娼婦の源氏名としてよく使われていた名前だそうです。
②「印象派」の名づけ親 クロード・モネ
フランスの印象派を代表する画家、クロード・モネ。パリで生まれましたが、両親の経営していた店が傾いたことにより、親戚を頼ってノルマンディーの港町ル・アーヴルに引っ越し、そこで育ちました。
ル・アーヴルで少年期を過ごしたモネは、ここでのちの師匠である海の風景画を得意とした画家、ウジェーヌ・ブーダンとの運命的な出会いを果たしました。
この時のブーダンとのスケッチで発見した、外の空気を吸い、光を感じながらその瞬間を描いていく、という絵画をモネは生涯追い続けます。そして19歳になったモネは、本格的に絵を学ぶためにパリへ向かいました。
クロード・モネ《印象、日の出》1873年
1874年、サロンの審査に不満を持つモネやルノワール、カミーユ・ピサロなどの画家たちは、出資者を募って無審査のグループ展「第1回印象派展」を開催します。
この展覧会で、本作を見た美術批評家ルイ・ルロワは『シャリヴァリ』という新聞に鑑賞レポートを掲載。そこで、「印象に過ぎない。印象主義の展覧会だ」と、からかいに満ちた皮肉な文章で本展を紹介しました。
そのため《印象、日の出》は、印象派の名称のもととなった、シンボルとも言える作品です。
クロード・モネについてもっと知りたい方はこちら
③実は反印象派? 踊り子の画家、エドガー・ドガ
裕福な銀行家の長男として生まれたエドガー・ドガは、芸術好きの父の理解もあり、恵まれた環境で画家の道を歩み進めました。
28歳のとき、マネとの出会いをきっかけに印象派の一員となったドガ。風景画が多数を占める印象派画家のなかでも、彼はオペラ座やバレエの練習場など、屋内のようすを作品にしたものを好んで描きました。
エドガー・ドガ《エトワール》1876-77年頃
屋外よりも屋内、自然光よりも人工灯など。ドガは印象派の画家らしくない一面が目立ちます。また彼自身もかなりプライドが高く、皮肉屋だったため友人が少なかったそうです。
1874年に、ドガの父が亡くなると、父が残した多額の借金を残していたことが発覚! ドガは借金を返済するために、売れる絵を大量に描く必要に迫られます。
そこで描かれたのが、のちにドガの代名詞となる踊り子を主題としたものでした。このテーマを描いたことにより、ドガはすぐに成功をおさめ、彼の作品の収集家も増え始めたそうです。
国立西洋美術館
国立西洋美術館は、フランス政府から日本へ寄贈返還された「松方コレクション」を保存・公開するために設立された美術館です。
ル・コルビュジェが設計した建物は世界遺産に指定され、近年注目度が高まっています。
松方コレクションは、印象派の絵画およびロダンの彫刻を中心とするフランス美術コレクションです。そのなかには、モネやルノアール、カミーユ・ピサロなどの傑作も多く収蔵されています。
※同館は、2022年春(予定)にかけて館内施設整備のため、全館を休館中です。詳しくは、美術館公式サイトをご確認ください。
アーティゾン美術館
アーティゾン美術館(旧・ブリヂストン美術館)は、株式会社ブリヂストンの創業者、石橋正二郎氏(1889-1976)自らが収集したコレクションを公開するために創設された美術館です。
約2800点におよぶ美術作品のコレクションを所蔵している石橋財団。現在も継続して作品収集に取り組んでおり、古代美術や印象派、日本の近世美術、日本近代洋画、20世紀美術、現代美術など、さまざまなコレクションが収蔵されています。
DIC川村記念美術館
DIC川村記念美術館は、DIC株式会社が関連企業とともに収集してきた美術品を公開する施設として、1990年5月、千葉県佐倉市の総合研究所敷地内にオープンしました。
17世紀のレンブラントによる肖像画、モネやルノワールら印象派の絵画から、ピカソ、シャガールなどの西洋近代美術、そして20世紀後半のアメリカ美術まで、見応えのある作品が収蔵されています。
この他にも、日本全国には印象派の作品を収蔵している美術館が多数あります。興味のある方は、探してみてください♪
日本でも大人気の美術ジャンル「印象派」について、詳しくご紹介しました。
今回こちらで説明した印象派は初期のもので、このあと新印象派、後期(ポスト)印象派と発展していきます。そちらについても、また詳しくここでご紹介できればと思います!
次回は、モネと並ぶ印象派の巨匠であるピエール・オーギュスト・ルノワールについて、ユニークなエピソードとともにご紹介します。お楽しみに!
【参考書籍】
・早坂優子『巨匠に教わる 絵画の見かた』株式会社視覚デザイン研究所 1996年
・早坂優子『鑑賞のための 西洋美術史入門』株式会社視覚デザイン研究所 2006年
・杉全美帆子『イラストで読む 印象派の画家たち』株式会社河出書房新社 2013年
・岡部昌幸 監修『西洋絵画のみかた』成美堂出版 2019年
・佐藤晃子『名画のすごさが見える 西洋絵画の鑑賞事典』株式会社長岡書店 2016年
・池上英洋 監修『マンガでわかる「西洋絵画」の見かた 美術展がもっと愉しくなる!』株式会社 誠文堂新光社 2016年