塩田千春の作品から他者との「つながり」を考える。圧巻のインスタレーションに注目
2024年10月3日
「10分でわかるアート」は、世界中の有名な美術家たちや、美術用語などを分かりやすく紹介する連載コラムです。
作家たちのクスっと笑えてしまうエピソードや、なるほど!と、思わず人に話したくなってしまうちょっとした知識など。さまざまな切り口で、有名な作家について分かりやすく簡単に知ってもらうことを目的としています。
今回は、ロマン主義の伝統を受け継ぐ19世紀のイギリスの画家「ジョン・コンスタブル」について、詳しくご紹介。
「この作品を作った作家についてもう少し知りたい!」「美術用語が難しくてわからない・・・」そんな方のヒントになれば幸いです。
ジョン・コンスタブル(1776-1837)は、ウイリアム・ターナーと並ぶイギリスの風景画家です。
1776年、のどかなイギリスの田園地帯・サフォークの製粉業の家に生まれたコンスタブル。ターナーの1年後に生まれたそうです。
成長するにつれて絵に興味を持ち始め、彼は地元のガラス屋のジョン・ダンソーンとスケッチに出かけるようになります。その後19歳になったコンスタブルは、美術愛好家でのちに彼のパトロンとなるボウモントと知り合いになりました。
19歳のコンスタブルのスケッチを見たボウモントは、彼に対して「もう少し頑張ってみなさい」と応援。ボウモントのその言葉に後押しされたコンスタブルは、24歳でロンドンにあるロイヤル・アカデミーの美術学校に入学します。
しかし、コンスタブルはここで、「美術ジャンルのヒエラルキー(階級分け)」という壁にぶつかります。
フランスの王立アカデミーの学長シャルル・ド・ブランが考えた理論により、美術のヒエラルキーは1位「歴史(物語)画」、2位「肖像画」、そして3位「静物画」と定められていました。
コンスタブルやターナーが活躍していた19世紀初めは、風景画は地位の低いものとされていたのです。そこで彼らはイギリスの風景画の改革を行い、その評価を高めることに注力し始めました。
コンスタブルは、20代半ばからはロイヤルアカデミーに作品を出品しながら、自然の美しい湖畔地方へ取材旅行をするようになります。
彼の戸外での制作や、光を捉えるためにパレットで色を混ぜるのではなく画面上に異なる色を筆で並べていくスタイルである分割筆法は、のちに活躍するバルビゾン派や印象派の画家たちにも大きな影響を与えました。
また、死後の評価に思いをはせた晩年のコンスタブルは、主要作品の版画集の出版や、ロイヤル・アカデミー美術学校での指導、夏季展覧会の選考委員会に加わるなど、画壇の重鎮としての役割を果たしました。
故郷のサフォーク地方と、ロンドンの風景を描き続けたコンスタブル。しかし、彼の作品はその粗いタッチなどから、「これは単なるスケッチだ」「未完成作品」などと言われ、当時のイギリスでは思うように評価されませんでした。
そんな地位の低い風景画の注目を集めるために、コンスタブルは6フィート(約185cm)の大型の風景画を制作しました。その試みがたまたまロンドンに来ていたフランスの画家、テオドール・ジェリコーの目にとまります。
ジョン・コンスタブル《干し草車》1821年
ジェリコーは、コンスタンブルに「ぜひ、パリであなたの絵を紹介したい」と言い、1824年、コンスタンブルはパリのサロンに《干し草車》とほか12点の作品を出品しました。
そして見事に、コンスタブルの作品はサロンで金賞を受賞。さらにロマン主義を代表する画家、ウジェーヌ・ドラクロワからも称賛されました。
サロンで《干し草車》を観たドラクロワは、粗いタッチや鮮やかな色彩に触発され《キオス島の虐殺》をすべて描き直したといいます。
隣国・フランスで価値が見いだされたコンスタブルの作品。パリの画商に「もっとパリで絵を描きませんか?」と言われた際、コンスタブルは「外国でお金持ちになるより、貧しくても祖国・イギリスで暮らしたいのです」と、断ったのだそう。
その言葉どおり、コンスタブルは生涯、故郷のイギリスで風景を描き続けました。そして、目で見た自然のそのままの姿を率直に表現することによって、コンスタブルは19世紀風景画の方向を定めました。
33歳のとき、12歳年下で幼なじみのマリアと恋人同士になったコンスタブル。彼女とは結婚まで考えていましたが、コンスタブルに稼ぎがないことや年の差が影響して、周囲からは大反対を受けていました。
その反対を押し切っていた2人。プロポーズから7年後にようやく結婚が許されます。この時コンスタンブルは40歳、マリアは28歳でした。
長い愛がようやく実ったにも関わらず、結婚式当日、マリアの親族は誰一人出席しなかったのだとか・・・。
コンスタンブルが画家として自立できるようになったころ、ある人に「この絵は誰の注文で描いたか」と問われ、コンスタンブルは「私は愛する妻・マリアのためだけに絵を描いています」と答えたのだそう!
コンスタブルが深くマリアのことを愛していることがうかがえるエピソードのひとつです。
ジョン・コンスタブル《デダムの谷》1802年
アメリカ、マサチューセッツ州東部の町であるテダムの風景を描いた本作。7年間と長いあいだマリアに恋心を抱いていた時に描かれた作品だと言われています。
コンスタブルが描いたテダムの風景を観たイギリス人は、「ここはコンスタブルの国だからね」とイギリスジョークを言うのだそう。
そのくらい、イギリス人にとってアメリカのテダムは、なじみのある町であることがわかりますね。
生涯にわたり、故郷・イギリスの風景画を描き続けたコンスタブルについて、詳しくご紹介しました。
調べてみると、7年にもおよぶ長い恋愛を経て、マリアと無事に結ばれたことや、貧しくてもいいから故郷のイギリスを描き続けたいなど、コンスタブルは一途な画家であることがわかるエピソードがたくさんありました。
コンスタブルの作品は、テート・ブリテン(テート美術館)が多く所蔵しています。
日本では、静岡県立美術館や郡山市立美術館が所蔵しているとのこと。機会があれば、日本でもコンスタブルの作品が観られるかもしれません。
次回は、ターナーやコンスタンブルが描いた「風景画」について、歴史や有名な作品などから詳しくご紹介します。お楽しみに!
【参考書籍】
・早坂優子『巨匠に教わる 絵画の見かた』株式会社視覚デザイン研究所 1996年
・早坂優子『鑑賞のための 西洋美術史入門』株式会社視覚デザイン研究所 2006年
・岡部昌幸 監修『西洋絵画のみかた』成美堂出版 2019年
・佐藤晃子『名画のすごさが見える 西洋絵画の鑑賞事典』株式会社長岡書店 2016年