クロード・モネ/10分でわかるアート

10分でわかるアートとは?

10分でわかるアート」は、世界中の有名な美術家たちや、美術用語などを分かりやすく紹介する連載コラムです。

作家たちのクスっと笑えてしまうエピソードや、なるほど!と、思わず人に話したくなってしまうちょっとした知識など。さまざまな切り口で、有名な作家について分かりやすく簡単に知ってもらうことを目的としています。

今回は、印象派を代表する画家、クロード・モネについて詳しくご紹介。

「この作品を作った作家についてもう少し知りたい!」「美術用語が難しくてわからない・・・」そんな方のヒントになれば幸いです。

画家、クロード・モネとは

フランスの印象派を代表する画家、クロード・モネ(1840₋1926)。外光派とも呼ばれており、その作品のほとんどが風景画です。

外光派とは、屋外の明るい光や色彩の効果を重視して、作品を終始外で描く制作方法をとった画家たちのことです。この制作方法は、戸外制作とも呼ばれています。

それまで西洋の風景画制作では、現場でのスケッチを基礎として、アトリエ内の人工的な光のもとで油絵を仕上げるというのが伝統でした。

しかし、物の形や色彩に光が与える影響や作用、大気の乾燥や湿気の度合いにも注意が向けられるようになると、伝統的な絵画制作への疑問が生まれます。

スフマート Sfumart 10分でわかるアート 印象派 クロード・モネ
(左から)ギュスターヴ・クールベ《波》1870年/ウジェーヌ・ブーダン《Approaching Storm》1864年

そうしたなかで、屋外で作品を完成させる外光派の考えは、1850~60年代に革新的なものとして多くの優秀な画家たちに採用され始めたのです。

モネをはじめとする印象派の風景画家は、ほとんどが外光派であり、彼らの先駆けはギュスターヴ・クールベや、モネの師匠であるウジェーヌ・ブーダンがあげられます。

一財を築くほどの絵の腕前!

モネは、フランス・パリに生まれました。両親は、食料品店を営んでおり、貧しくはない中流の家庭に育ちましたが、モネが5歳のころ、店の経営が傾き、一家は親戚を頼ってノルマンディーの港町ル・アーヴルに引っ越しました。

貿易船の停泊する港をもつル・アーヴルは当時、活気のある町でした。そこで少年期を過ごしたモネは、学校にはあまり魅力を感じられず、サボってばかりいたそうです。

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クロード・モネが少年期に描いたカリカチュア

しかし、絵の才能は子どものころからあったそうで、16歳の時に著名人を誇張して描くカリカチュア(風刺画)を売って、一財を築くほどでした。

そして、このカリカチュアがモネの師匠である海の風景画を得意とした画家、ブーダンとの運命的な出会いのきっかけにもなったのです。

モネ少年を画家の世界に誘った師匠・ブーダン

風景画家のウジェーヌ・ブーダンは、風景画の巨匠クールベから「空を知っているのは君だけだ」といわれた画家です。

ブーダンは、16歳のモネが描いたカリカチュアを見て、その絵の上手さに惹かれました。 ブーダンによって画家としての才能を見出されたモネですが、最初はブーダンから絵の手ほどきを受けることをしぶっていたそう。

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しかし、熱意に押され一緒にスケッチに出かけたとき、モネの中に決定的な変化が訪れます。この時のブーダンとのスケッチで発見した、外の空気を吸い、光を感じながらその瞬間を描いていく、という絵画をモネは生涯追い続けることになったのです。

そして19歳になったモネは、本格的に絵を学ぶためパリに出て、「印象派」が世間に認められるまで、長い長い闘いに身を投じていきます。

「印象派」の由来はモネの作品だった!

モネは1874年、カミーユ・ピサロやエドガー・ドガ、ピエール=オーギュスト・ルノワールなどの画家たちとともに、第1回印象派展を開催します。そのうち、モネの出品作のひとつである《印象、日の出》が同展の名称の由来となりました。

本作は印象派の代名詞となる作品なので、評価が高かったに違いないと思うかもしれませんが・・・実は、発表された当時は、まったく人びとに受け入れられず、売れるどころか、強い拒否反応すら起こさせたのだとか。

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クロード・モネ《印象、日の出》1873年

なぜ印象派の画家たちが描いた絵が、ここまで強く否定されたのかというと、それは「仕上げの粗さ」にあります。

筆跡が残っている状態の絵が、額ぶちに収まっているようすは、当時の伝統的な絵画を知る人びとにとって理解しがたい状態でした。

なぜなら、多くの画家は、準備段階としてスケッチを描き、それを元に下絵を描き、そしてその上に油彩で本番を描いて、最後には、筆跡をまったく感じさせないまで画面全体をツルツルに仕上げていたからです。

そのような制作工程を重んじていた画家たちから見れば、印象派の画家たちが「完成」と言っている絵は、単なる準備段階のスケッチにしか見えなかったのです。

大作『睡蓮』の制作を支えた親友・クレマンソー

モネは1883年に、フランス・ノルマンディーのジヴェルニーの家に移り住み、池のある庭園をつくって1890年代終わりから1926年に没するまで、「睡蓮」を主題にした作品の制作に打ち込みました。

フランスのオランジュリー美術館の円形の展示室「睡蓮の間」には、モネが国家に寄贈した《睡蓮》の大装飾画が展示されています。

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この大装飾画《睡蓮》の国家寄贈計画を提案したのは、モネの古くからの友人で首相も務めたクレマンソーという人物でした。

当時のモネは、印象派の仲間の最後の生き残りであったルノワールが亡くなったり、モネ自身も白内障になったりと、精神的にも肉体的にも満身創痍の状態でした。それを支えたのが、親友であるクレマンソーでした。

彼はモネに当時、非常に困難で苦痛を伴う白内障の手術を勧め、「耐えて、また《睡蓮》を描いてほしい!」と励ましました。その結果、モネは視力を取り戻すことに成功! 最後のエネルギーを大装飾画《睡蓮》に注ぎ込みました。

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クロード・モネ《睡蓮の池》1900年

1926年、モネはジヴェルニーの自宅で亡くなりました(享年86)。その翌年、総長80メートルを超える大装飾画《睡蓮》は、オランジュリー美術館の特別展示室に収められました。

ちなみに、《睡蓮》といえばオランジュリー美術館が有名ですが、モネは1899年から約20年間《睡蓮》を、何百枚と描いていました。その数は200点を超えます。日本でも国立西洋美術館やアーティゾン美術館、ポーラ美術館など、多くの美術館が所蔵していますよ!

おわりに

クロード・モネについて、さまざまなエピソードを紹介しました。

モネは印象派の理想を追い続けた画家です。沈みゆく太陽のスピードと競うように、満ち溢れる光に彩られた世界を、独自の色彩感覚で描き出しました。

そうした作品は、現代の人びとの心をとらえ、今もなお絶大な人気を誇っています。

モネの作品をよーく観てみると、実は「黒色」が使われていません。影など黒っぽい部分には、薄紫など比較的明るい色が使われています。

1926年12月5日に亡くなったモネ。その訃報を聞きつけたクレマンソーは、モネの棺にかけられた黒い布を見て「モネに黒はだめだ!」と、部屋にかかっていたカラフルな花柄のカーテンをその上からかけた、という話も残っているそうです。

そのくらい、モネには黒のイメージはなかったことがわかりますね。鑑賞の際は、こちらもぜひ注目してみてください。

次回は、「印象派」について詳しくご紹介していきます。お楽しみに!

【参考書籍】
・早坂優子『巨匠に教わる 絵画の見かた』株式会社視覚デザイン研究所 1996年
・早坂優子『鑑賞のための 西洋美術史入門』株式会社視覚デザイン研究所 2006年
・早坂優子『101人の画家 生きてることが101倍楽しくなる』株式会社視覚デザイン研究所 2009年
・杉全美帆子『イラストで読む 印象派の画家たち』株式会社河出書房新社 2013年