ポール・ゴーガン/10分でわかるアート

10分でわかるアートとは?

10分でわかるアート」は、世界中の有名な美術家たちや、美術用語などを分かりやすく紹介する連載コラムです。

作家たちのクスっと笑えてしまうエピソードや、なるほど!と、思わず人に話したくなってしまうちょっとした知識など。さまざまな切り口で、有名な作家について分かりやすく簡単に知ってもらうことを目的としています。

今回は、豊かな色彩で南国のようすを描いたポスト印象派の画家「ポール・ゴーガン」について、詳しくご紹介。

「この作品を作った作家についてもう少し知りたい!」「美術用語が難しくてわからない・・・」そんな方のヒントになれば幸いです。

本物の楽園を求めた画家、ポール・ゴーガンとは

ポール・ゴーガンは1848年のフランス・パリに生まれました。父の仕事の都合で南アメリカのペルーに移住しますが、その厳しい船旅でゴーガンの父は亡くなってしまいます。

ゴーガンの母・アリーヌは幼い子どもたちを連れ、ペルーの首都・リマにある親戚の家に身を寄せました。母の親戚の家は副大統領を出すほどの影響力を持つ家だったといいます。そんな恵まれた環境ですくすくと育ったゴーガンは、17歳から6年間、水夫として世界を巡りその後、証券マンとして働き始めます。

仕事で成功を収めたゴーガンは一財を築き、デンマーク人のメット・ガッドと25歳のときに結婚。四男一女をもうけて、幸せな生活を送っていました。

ゴーガンは元々、趣味で絵画を収集していたといいます。1874年ごろからは、収集だけではなく自分でも絵を描き始めました。そこで印象派の画家であるカミーユ・ピサロ(1830-1903)と知り合い、彼から大きな影響を受けます。

ピサロからの強い推薦によりゴーガンは趣味で描いていた絵を第4回印象派展に出品し、以降第8回展まで毎回欠かさず作品を出品しました。


ポール・ゴーガン《裸婦習作(縫い物をシュザンヌ)》1880年

ゴーガンの初期作品の中でもっとも評価された作品として有名な本作。モデルはシュザンヌと若い女性で、裸体のまま裁ほうしている場面が描かれています。

こうして趣味で描いた絵がサロンに入選すると、ゴーガンは35歳で仕事を辞めて画業に専念することを決意します。しかし、絵は全く売れず・・・

証券マンとして築いた財産も底をつき、また妻・メットも「画家」という安定しない職業に囚われた夫のゴーガンの姿に愛想を尽かせ、子どもたちとともにデンマークの実家に戻ってしまいました。

画家としての道を歩むしかなくなったゴーガンは、新たな画題を求めてブルターニュの田舎ポン・タヴェンや北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の境に位置するパナマ共和国へ向かいます。


ポール・ゴーガン《説教のあとの幻影(ヤコブと天使の争い)》1888年

ポン・タヴェンでゴーガンは、色彩を分割しようとする印象主義へ真っ向から対抗する「総合主義」と呼ばれる新しい絵画の流行を生み出します。総合主義の作品は、太くて濃いりんかく線と色彩を平面に塗るのが特徴とされており、当時パリで流行っていた浮世絵の影響を強く受けているといわれています。

総合主義を駆使した作品《説教のあとの幻影》を発表すると、ゴーガンは「色彩の画家」として才能を開花させました。

わずか2か月で幕を閉じたゴッホとの共同生活

評価はされていましたが、なかなか個展で絵が売れず極貧生活を送っていたゴーガン。1888年、そんな彼と同時代に活躍していた画家、ファン・ゴッホ(1853-90)から「一緒に暮らさないか」と南仏のアルルに招かれました。

ゴッホはアルルに画家仲間を呼び寄せて、芸術家の共同体をつくることを夢見ていました。1888年10月に、ゴーガンがアルルにやって来るとゴッホは自分の夢がまた一歩近づいたと喜んでいたといいます。しかしゴーガンは「アルルに来れば、ゴッホの弟・テオからの仕送りによって生活ができる」という、打算に満ちた選択でゴッホの提案を受け入れていたのです。

料理はゴーガンが担当、買い出しはゴッホ、テオからの仕送りの使い道はゴーガンなどと取り決めて共同生活を始めますが、製作活動のあとに夜な夜な行われる芸術議論は激しさを増し、妥協を知らない2人の仲はどんどん悪くなっていきました。

そんな険悪の状態である2人を引き裂く「耳切り事件」という大きな事件が起こります。この事件はゴッホのエピソードのなかでももっとも有名なものです。

1888年10月23日に起こった耳切り事件は、ゴーガンが1人散歩に出て、ふと道端で振り向くと・・・なんと後ろからゴッホがカミソリを持って飛びかかろうとする場面に直面します。しかし、ゴッホはゴーガンににらまれると何もできずに退散。そのあと、家に戻ったゴッホは、握っていたカミソリで自身も耳を切り、それを自分の知り合いの女性に手渡したのだそう。

それからアルル中は大パニック! ゴッホの耳を渡された女性はすぐに警察に連絡し、彼らがゴッホを探しに家に入ると彼は血まみれで眠っていました。ゴーガンもゴッホの普通じゃない精神状態に恐怖を抱き、その日のうちにパリに逃げ帰ってしまいます。

ゴッホの耳切り事件をきっかけにわずか2ヶ月で、2人の共同生活は幕を閉じました。

最後の楽園・タヒチを描くゴーガン

43歳のときにパリで開いた個展が成功を収めたため、ゴーガンはその売り上げを元手に南国・タヒチに渡ります。

タヒチは南太平洋諸島にあるフランス領ポリネシアで最大の島です。18世紀に探検家のキャプテン・クックが訪れたことで知られています。そこでゴーガンは、タヒチ滞在中の代表作である《かぐわしき大地》などを描いています。


ポール・ゴーガン《かぐわしき大地》1892年

ゴーガンが初めてタヒチで生活したころに描かれた本作。ゴーガン生み出した新しい絵画の流行である「総合主義」を代表する作品のひとつとも言われています。

この2年後にゴーガンは帰国し、パリで個展を開きましたが結果は散々なものでした。そこでまた南の楽園を求めてゴーガンは再びタヒチに向かいますが、夢にまで見た南の楽園・タヒチの姿はすっかり近代化が進みゴーガンを失望させます。


ポール・ゴーガン《我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか》1897年

そして失意の中にいるゴーガンのもとに、最愛の長女の死の知らせが届きます。すべてを失ったゴーガンは、大作《我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか》を描き上げて、自殺未遂事件を起こしたのでした。

自殺に失敗したゴーガンは、タヒチから北東に1500kmも離れたマルケサセス諸島へ向かいます。そして1903年に55歳で亡くなりました。

おわりに

色彩豊かな南国の風景を描く画家、ポール・ゴーガンについて詳しく紹介しました。いかがでしたでしょうか。

幸福な幼少期から一転、ゴーガンの人生は波乱に満ちたものでした。そんな彼が追い求めた「南の楽園」は、最後の希望だったのかもしれませんね。

 

次回は、印象派の影響を受けつつも、新しいスタイルを確立した「ポスト印象派」について、代表作などを詳しくご紹介します。お楽しみに!

【参考文献】
・早坂優子『101人の画家 生きていることが101倍楽しくなる』株式会社視覚デザイン研究所 2009年
・杉全美帆子『イラストで読む 印象派の画家たち』株式会社河出書房新社 2013年
・岡部昌幸 監修『西洋絵画のみかた』成美堂出版 2019年