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クロード・モネの世界にひたる。日本初公開作品を含む〈睡蓮〉などを堪能【国立西洋美術館】
2024年11月1日
「10分でわかるアート」は、世界中の有名な美術家たちや、美術用語などを分かりやすく紹介する連載コラムです。
作家たちのクスっと笑えてしまうエピソードや、なるほど!と、思わず人に話したくなってしまうちょっとした知識など。さまざまな切り口で、有名な作家について分かりやすく簡単に知ってもらうことを目的としています。
今回は、オーストリア、ウィーン分離派を代表する画家「グスタフ・クリムト」について詳しくご紹介。
「この作品を作った作家についてもう少し知りたい!」「美術用語が難しくてわからない・・・」そんな方のヒントになれば幸いです。
代表作《接吻》や《ユディトⅠ》など金箔をふんだんに使うロマンティックな絵画作品を多く残す画家、グスタフ・クリムト(1862-1918)。ウィーン郊外のバウムガルテンに7人兄弟の長男として生まれました。
(左から)グスタフ・クリムト《接吻》1907~1908年/グスタフ・クリムト《ユディトⅠ》1901年
14歳のときに、オーストリア工芸博物館付属工芸学校に入学し、在学中に弟・エルンストと同級生のフランツ・マッチュとともに装飾会社「芸術家カンパニー」を設立します。当時のウィーンは建築ラッシュ期で、街のあちこちで新しい建物が建設されていました。
クリムトたちの会社である芸術家カンパニーも、ブルグ劇場の壁画やウィーン美術史美術館の壁画などを制作を担当し、成功を収めます。しかし、クリムトが30歳のときに弟・エルンストが死去。それにより、芸術家カンパニーは解散することとなります。
その後、1897年にクリムトはヨーロッパの前衛芸術を取り入れることを目的としたウィーン分離派(セセッション)を結成しました。
ところが、政府に依頼されて制作したウィーン大学の天井画「法学」「医学」「哲学」が、教授陣たちに「学びの場にふさわしくない!」と批判されてしまいます。
腹を立てたクリムトは、以後、公的な仕事は一切引き受けないことにしたのだそう。その代わりに、パトロンのために金箔をふんだんに使う、豪華でロマンティックな作品を手掛けるようになりました。
一般的に画家を想像すると、一日中アトリエにこもってキャンバスに向き合っている人を思い浮かべるのではないでしょうか。クリムトはスポーツが大好きだったといいます。
朝起きると朝食の前に筋トレ、ジョギングをこなし、制作中は重量挙げ男子をモデルにしながら彼とレスリングをすることもあったのだそう! ちなみに、そのモデルの腕を折ってしまうほどの筋肉マンだったそうです。
やはり当時の女性からしても、クリムトは魅力的な男性だったのでしょう。彼の元には多くの美しい女性モデルがいました。恋多き人生を送ったクリムトですが、生涯交流を続けて信頼を置いていた女性は、早くに亡くなった弟・エルンストの妻の妹エミリーエ・フレーゲでした。
19世紀後半の西洋美術の流れでは、アカデミーの唱える伝統から離れ、画家自身が独自性を追求して印象派などの新たな風潮が生まれた時代です。
そんな時代に活躍していたクリムトも、次第に新しい表現を追求するようになります。しかし一方で、ウィーンの美術界には伝統を重んじる風潮が根強く残っていました。
1894年、クリムトにウィーン大学講堂の天井画の依頼が舞い込みます。指定された「医学」「法学」「哲学」の題材を元に、2年の構想を経て下絵を提出しましたが、その下絵に対して激しい論争が巻き起こりました。これが「ウィーン大学大講堂天井画事件」の発端です。
大学側が「人類の知性の勝利」を表す天井画を描いてほしいと依頼したにも関わらず、クリムトの提案は退廃的なイメージでした。伝統とは真逆のクリムトの下絵は、なんと国会の論争にまで発展したのだそう!
結果的にクリムトは契約を断って報酬金を返還し、その後は公共の絵画制作を手掛けることはなくなりました。
「ウィーン大学講堂天井画事件」以降、クリムトは公的な仕事を一切受けることが無くなりました。しかし、個人的なパトロンたちが、クリムトに対して好意的な批評と金銭的な援助を行います。その結果、クリムトは1903年に「黄金時代」を迎えるようになりました。
クリムトは、1903年以前から《アテナ》や《ユディト》という金箔を使用した絵画を制作していました。パトロンからの支援で迎えた黄金時代以降は代表作《接吻》に見られるよう、画面全体に金箔をふんだんに使用した作品を多く制作するようになりました。
グスタフ・クリムト《接吻》1907~1908年
ちなみにクリムトは、ほとんど旅行をしなかったのだそう。唯一足を運んだ、美しいビザンツ・モザイク模様で有名なイタリアの都市・ベニスとラベンナへの旅行は、クリムトに大きな影響を与えて黄金時代の作品の多くに反映されています。
またクリムトのもとには、悩める女性モデルがいつも集まっていました。生活費が無いモデルがいれば「今日はモデルをしなくていいから、これでおいしいものを食べなさい」とお金をポンと出していたのだそう!
さらに、弟子であるエゴン・シーレが描いた絵を買い、その生活を支えたり、モデルたちの愚痴を聞いたりなど、かなり面倒見のいい性格をしていたといいます。そんな気の良い性格をしたクリムトだからこそ、パトロンたちも彼のことを支えたのかもしれませんね。
19世紀末のオーストリア、ウィーンを代表する画家グスタフ・クリムトについて詳しくご紹介しました。
プライドが高いながらも、気前が良く世話好きで多くの人に慕われたクリムト。若手画家の育成にも積極的な人物でした。
しかしある日、脳卒中で倒れ、入院中に風邪をこじらせて息をひきとります。享年55歳でした。
次回は、クリムトやミュシャなどの作品が分類される「世紀末美術」について、詳しくご紹介します。お楽しみに!
【参考書籍】
・早坂優子『巨匠に教わる 絵画の見かた』株式会社視覚デザイン研究所 1996年
・早坂優子『101人の画家 生きてることが101倍楽しくなる』株式会社視覚デザイン研究所 2009年
・岡部昌幸『西洋絵画のみかた』成美堂出版 2020年
・池上英洋『マンガでわかる「西洋絵画」の見かた 美術展がもっと愉しくなる!』誠文堂新光社 2016年