高畠華宵/10分でわかるアート

10分でわかるアートとは?

10分でわかるアート」は、世界中の有名な美術家たちや、美術用語などを分かりやすく紹介する連載コラムです。

作家たちのクスっと笑えてしまうエピソードや、なるほど!と、思わず人に話したくなってしまうちょっとした知識など。さまざまな切り口で、有名な作家について分かりやすく簡単に知ってもらうことを目的としています。

今回は、大正ロマンを代表する挿絵画家「高畠華宵」について詳しくご紹介。

「この作品を作った作家についてもう少し知りたい!」「美術用語が難しくてわからない・・・」そんな方のヒントになれば幸いです。

挿絵画家、高畠華宵とは

大正ロマンを代表する挿絵画家、高畠華宵(たかばたけ かしょう)は1888年、愛知県の小間物屋兼生糸仲介商を営む家の三男として生まれました。本名は幸吉。幼少期、母の影響により絵を描くことに興味を抱いたといいます。また華宵は、母から女性の髪形や衣裳などについても教えてもらっていたようで、この知識はその後の作品制作に役立てられました。

1903年、華宵は15歳になると京都市立美術工芸学校に入学し日本画科に学びます。しかし、翌年に父の死去により画学校を中退し帰省。画家になることを諦められなかった華宵は、家督を相続した長男に相談して再度、大阪に出て日本画家の平井直水(ひらい ちょくすい)の画塾に入ります。この頃から祇園の華やかな宵を意味する「花宵(華宵)」を号とするようになりました。

当初は日本画を学んでいた華宵ですが、17歳の時に友人からギリシャ美術の画集を借りたことにより、洋画に興味を抱くようになります。その後、関西美術院に入学して洋画を学び始めました。

20歳になった華宵は上京し、図案や広告の仕事に携わるようになります。それまでは無銘の画家であった華宵ですが、1911年に津村順天堂(現・株式会社ツムラ)の婦人薬「中将湯」の広告にモダンでロマンチックな婦人画を描き、注目を浴び始めます。


『婦人世界』22巻7号、1927年(口絵《広告 中将湯》、高畠華宵・画)
高畠華宵大正ロマン館所蔵近代日本大衆雑誌図像データベースより転載

その後、華宵は当時講談社が出版していた『少年俱楽部』に挿絵の執筆を開始。彼のロマンチックでモダン的な作風は絶大な人気を得て、その後約20年間にわたり、少年少女向け雑誌・大衆婦人向け雑誌など出版美術界に君臨し、大ブレイクしました。

高畠華宵の作風

線描によるリアリズムの挿絵画家であった華宵。各出版社が多くの雑誌が創刊し、華宵をはじめとする挿絵画家を輩出した当時の出版界の中でも、流れるような美しい線で描かれた美少年美少女は、透明感のある新鮮なタッチと妖艶な人物描写の混合する魅力的な挿絵として、人びとをひきつけました。


(左)『少年倶楽部』10巻6号、1923年(表紙絵《勝敗いづれ》、 高畠華宵・画)
(中央)『少女画報』14巻5号、1925年(表紙《春光をあびて》、高畠華宵・画)
(右)『婦人世界』22巻10号、1927年(表紙《仲秋》、高畠華宵・画)
いずれも、高畠華宵大正ロマン館所蔵近代日本大衆雑誌図像データベースより転載

華宵のペン画による挿絵は、新しい印刷である銅版や凸版に合った技法でした。また彼が描く、欧米風俗やニューファッションは新しい文化の情報源でもあり、大正ロマンを象徴するモダンガールやモダンボーイの誕生のきっかけにもなっています。

高額な画料が縁の切れ目?「華宵事件」とは

1913年3月に、華宵は知人を介して講談社の『講談倶楽部』の挿絵を描き始めます。翌年からは同じく講談社の『少年倶楽部』の挿絵制作にも加わり、講談社系の雑誌の仕事が増え始めました。

『少年倶楽部』の創刊10周年記念号には、「お馴染の諸先生と」と題した当時の人気作家15名の顔写真を並べた巻頭の写真口絵に、華宵はなんと1番目に掲載されていたのだそう! 華宵が読者の間に圧倒的な人気を得ていたことがよくわかります。しかし1924年、講談社は「華宵事件」により人気挿絵画家・高畠華宵を失ってしまいます。

華宵事件とは、華宵が講談社に対して高い画料を請求したことによって起きた金銭トラブルのこと。これにより講談社の専属挿絵画家となっていた華宵は、同社の全雑誌への執筆をやめてライバル誌に移ってしまいます。

ちなみに、この事件により超人気挿絵画家がフリーとなった瞬間、当時の雑誌業界では壮絶な「華宵争奪戦」が勃発したといいます。華宵が挿絵を描けば、たちまち雑誌は大ヒット! というくらい、影響力のある挿絵画家だったことがうかがえるエピソードです。

大正乙女にはあこがれの的であった華宵先生

華宵は当時の少女たちにとっては、あこがれの人でした。

1923年に華宵は、鎌倉の稲村ヶ崎に「華宵御殿(または、挿絵御殿)」と呼ばれる豪邸を建て、そこで暮らし始めます。
華宵御殿の暮らしについて、当時の華宵の手記にユニークなエピソードも。

“夏になって海岸には出られず、ふと稲村海岸に出るとリレーが飛んで、由比ヶ浜からゾロゾロとお嬢さんが来て取り囲まれる。画室は下からは中を見えぬ工夫がしてあるので、山の上に多数の女学生が並び、声をそろえて華宵先生々々々々、顔を出すまで呼び掛ける。”

華宵御殿の外はたくさんの女性ファンで溢れかえり、また華宵が少しでも外を歩くとファンがゾロゾロとついてくるなど、画家というよりは舞台俳優などの芸能人のような人気ぶりだったといいます。さらに、華宵の姿を一目見たいがために家出をするファンも多かったのだそう! 大変熱烈なファンを持っていました。

しかし、その人気を利用して華宵の女性ファンに近づくという「高畠華宵」と名乗る偽物が現れ、警察から何度も出頭要請があったといいます。人気者になるのも大変なのですね・・・。

おわりに

大正から昭和初期にかけて活躍した画家、高畠華宵についてご紹介しました。

華宵の作品は、地元愛媛県にある「高畠華宵大正ロマン館」のほかに、東京都文京区にある「弥生美術館」などが多く所蔵しています。

興味のある方はぜひ足を運んでみてくださいね♪

 

さて次回は、「大正ロマン」について、その時代に流行った画家や作品を交えて詳しくご紹介します。お楽しみに!

【参考書籍】
・松本品子『高畠華宵-大正・昭和★レトロビューティー 新装版(らんぷの本 mascot)』河出書房新社 2011年