PROMOTION
ハローキティ誕生50周年!「キティとわたし」を紐解く展覧会
2024年11月21日
「10分でわかるアート」は、世界中の有名な美術家たちや、美術用語などを分かりやすく紹介する連載コラムです。
作家たちのクスっと笑えてしまうエピソードや、なるほど!と、思わず人に話したくなってしまうちょっとした知識など。さまざまな切り口で、有名な作家について分かりやすく簡単に知ってもらうことを目的としています。
今回は、「モンパルナスの帝王」と呼ばれた画家「モイズ・キスリング」について詳しくご紹介。
「この作品を作った作家についてもう少し知りたい!」「美術用語が難しくてわからない・・・」そんな方のヒントになれば幸いです。
モイズ・キスリング(1891-1953)は、ポーランドの古都クラクフの裕福な仕立屋の息子として生まれました。明るく鮮やかな色彩で、異国的な情感の女性像を描くことで知られるエコール・ド・パリを代表する画家のひとりです。
地元クラフクの美術学校で、印象派の影響を受けたユゼフ・パンキェヴィッチ(1866-1940)に師事。その後、1910年にパリへ出て画家として本格的に絵を描き始めました。
パリへ出た当時、第一次世界大戦開戦前ということで生活は苦しかったといいます。しかしキスリングと同郷の画商、アドルフ・パスレルや東欧出身のユダヤ系の支援に恵まれるなど、経済的な困窮はなかったのだそう。
モイズ・キスリング《モンパルナスのキキ》1925年
また、キスリング自身も大変社交的な性格をしており、芸術家たち以外にも映画俳優や、「モンパルナスの女王」と称されたモデル、キキ(本名:アリス・プラン)などとの幅広いジャンルの人びとと交流していました。
パリに出たころ、キスリングはルーヴルの対岸にある美術学校の近くのボザール街の屋根裏部屋を宿にしていました。そこで、モディリアーニやブラックなどと親しくなります。
その後1912年、キスリングはボザール街の屋根裏部屋を離れ、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックなどが活動拠点としていたモンマントルのバトー・ラヴォワール(フランス語で「洗濯船」という意味)に移ります。
大変面倒見のいい性格だったというキスリング。彼のアトリエは他の芸術家やたちが集まる社交場となりました。またキスリングは、アルコール中毒など破滅型のイメージが強いエコール・ド・パリの画家たちの中では、珍しく幸福な生涯を送った画家でもあります。
しかし、第二次世界大戦が勃発するとユダヤ人であったキスリングは、ドイツに占領されたフランスにいることが難しくなり、アメリカへ亡命します。アメリカでもキスリングの人気は高く、また温厚でユーモアにあふれ人づき合いの良い性格も手伝って亡命先でも穏やかに生活していたといいます。また彼は同じ亡命画家たちを経済的に支援もしていました。
終戦後、再びパリに戻った彼は精力的に活動しますが1955年、病に倒れて62年の生涯に幕を閉じました。
温厚で人からも好かれていたキスリングですが、ケンカとなると熱くなりやすい性格だったといいます。
1914年、同郷の画家ゴットリーブと名誉に関する問題から、なんとピストルで撃ち合うという「決闘事件」が起こりました。しかし、キスリングとゴットリーブが撃った弾丸は外れたため決着がつかず、彼らはサーベルを抜いて斬り合ったのだそう!結果、キスリングは鼻にケガを負いました。
温厚だけど怒るときは怒る。こういう分かりやすい性格だからこそ、キスリングは多くの人に親しまれたのかもしれませんね。それでも、ピストルやサーベルなどの武器をもって「決闘」するのはさすがにやりすぎでは?と思いますが。
エコール・ド・パリを代表する画家のひとり、モイズ・キスリングについて詳しくご紹介しました。
エコール・ド・パリの画家たちの間では中心的存在であったキスリング。個展でも早くに成功を収め、20代で画家としての名声を得ていました。
そんなキスリングの作品を世界で一番所蔵している美術館は、スイス・ジュネーブのプチ・パレ美術館です。また、日本国内では北エコール・ド・パリの作品を多く収蔵する北海道立近代美術館や、東京富士美術館、松岡美術館なども所蔵しています。機会があれば、実物を観ることができるかもしれません♪
次回は、メディチ家の画家「サンドロ・ボッティチェリ」についてご紹介します。
【参考書籍】
・早坂優子『101人の画家 生きてることが101倍楽しくなる』株式会社視覚デザイン研究所 2009年
・朝日新聞社編『朝日美術鑑賞講座10 名画の見どころ読みどころ 20世紀 現代絵画②』朝日新聞社 1992年
・早坂優子『巨匠に教わる 絵画の見かた』株式会社視覚デザイン研究所 1996年
・早坂優子『鑑賞のための 西洋美術史入門』株式会社視覚デザイン研究所 2006年