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2024年11月21日
楊洲周延 明治を描き尽くした浮世絵師/町田市立国際版画美術館
現在、町田市立国際版画美術館では、明治の絵師・楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)を紹介する展覧会「楊洲周延 明治を描き尽くした浮世絵師」が開催中です。
楊洲周延が生きた明治や、懐古として描いた江戸時代の美人画、戦争画など、約300点の作品を展示しています。
楊洲周延は1838年、高田藩(現在の新潟県上越市)の武士、橋本直恕の子として生まれました。
幼いころは狩野派や中国絵画のひとつの南画を学んでいた周延。
その後、歌川国芳(1798-1861)、3代歌川豊国(1786-1865)など、歌川派の絵師に師事します。
周延の画号となったのは、豊原国周(とよはら くにちか、1835-1900)の弟子となったころから。
絵師、周延として活動しつつ、それと同時に、武士として戊辰戦争や箱根戦争にも参加しました。
武士として、絵師として激動の時代を生き、40歳になったときから本格的に画業に専念。
美人画を得意としながら戦争画や歴史画など浮世絵師として活動しますが、1887年ごろになると錦絵は少しずつ減少。
それでも、戦争錦絵を描いたり、新聞の挿絵などを担当したりしながら明治時代を描き、生き抜きました。
周延は、浮世絵の中でも美人画をよく描いていました。
周延が描いた浮世絵は約2000点と言われていますが、全作品の中で美人画の割合は4~5割もあったそう。
楊洲周延《二十四孝見立画合 十四 王裒》1890 町田市立国際版画美術館
二十四孝とは、中国に古くから伝わる24人の親孝行の話。江戸時代から浮世絵としてよく描かれ、好まれてきた主題です。
右上に親孝行の場面を描き、構図やモチーフから影響を受けつつ、下部メインに明治の生活風俗を描いています。
女性の母は雷を恐れる人だったため、母亡き後も女性は母のお墓に向かい、雷が鳴り終わるまでそばを離れませんでした。
上部には母のお墓のそばに寄り添う姿が描かれ、場面を区切るように大きな雷が。
女性は雨が降り雷が鳴ってきて、心配そうに空を見上げて母を思う姿に見えます。
(左上から)楊洲周延《真美人 廿二》《真美人 廿七》《真美人 九》《真美人 一》1897、《真美人 廿九》1898、《真美人 二十》《真美人 十一》《真美人 二》1897 いずれも町田市立国際版画美術館蔵
楊洲周延《真美人 丗二》1897年 町田市立国際版画美術館蔵
少女から大人の女性まで美しい女性たちが並んでいます。
《真美人》は浮世絵の版元をしていた秋山武右衛門から1897年、1898年に版刊された大判錦絵です。
全部で36枚ほどあり、タイトルはすべて番号。
本作は階級や職業の制限はなく、墨で何かを書いている少女や、羽子板で遊ぶ女性、桶で洗濯する女性など、さまざまな女性が描かれています。
《真美人》に描かれた女性らは当時のモデルのポーズの参考になっていたり、カレンダーが出版されたりと、とても人気があったことがわかります。
豊原国周、楊洲周延《今様けんし 宮しま船中遊》1869 町田市立国際版画美術館
美人画を得意とした周延。周延が描く女性たちはいつも華やかな着物を着ています。
師匠の国周と周延の共作品。女性と男性が船に乗っているようすが、明治らしい鮮やかな赤を使用し、描かれています。
注目してほしいのは髪飾りや着物の色使いや絵柄。
大きな菊で華美な花柄の着物や黒色でシックで落ち着いた印象の着物、鮮やかな水色の髪飾りなどが見えます。
男性の着物には朝顔など、見比べてみると男女の着物の違いも楽しめます。
楊洲周延《初春少女の戯》1891 町田市立国際版画美術館蔵
梅の花が咲く新春に羽子板で遊んでいる少女たち。1887年代以降、周延の作品は、子どもたちの遊んでいるようすが描かれた作品が多くなっていきます。
着物には桜などの花や、鶴の折り紙の絵柄が施されています。着物に鶴はよく見かけますが、鶴の折り紙の絵柄は珍しいのではないでしょうか?
着物の柄までよく見てみると面白い発見がありそうです!
浮世絵師として活躍した周延ですが、本展で見られるのは浮世絵だけじゃありません!
ここでは浮世絵以外の肉筆画や挿絵を紹介します。
楊洲周延《江戸風俗画》 1877-1886頃 Kazuko Collection
本作は絹本着色という、絹に岩絵の具や染料で着色する技法で描かれています。
懐古として古き良き日本を描くことを目的に描かれたそうで、質の良い絵具を使用しているそう。
楊洲周延《江戸風俗画》 1877-1886頃 Kazuko Collection
のどかな田園風景や、蛍の飛んでいる光のぼやけ具合は肉筆画ならではの表現。
浮世絵とは違った優しい色使いを堪能できます。
(左)楊洲周延《鷲宿梅図》
(右)楊洲周延《地獄太夫図》いずれも1892-1912頃 上越市立歴史博物館蔵
左の《鷲宿梅図》はまるで墨で描かれたような落ち着いた色彩の作品。宿から外をのぞく女性が描かれ、どこか早朝のような涼しさを感じます。
右の《地獄太夫図》は自ら地獄と名乗った堺の遊女が描かれています。
第1回内国絵画共進会へ出品した本作。地獄と言いながらも着物には七福神が描かれ、吉祥の作品になっているところも面白いポイントです。
(左)楊洲周延《改進新聞 1016号 1面》
(右)楊洲周延《改進新聞 1016号 3面》いずれも1886 東京大学大学院法学政治学研究科付属 近代日本法政史科センター明治新聞雑誌文庫蔵
立憲改進党系機関紙として刊行された『改進新聞』。周延は新聞の挿絵も担当していました。
1886年6月から挿絵画家として起用された周延。
ほかにも挿絵画家としては歌川芳宗(うたがわよしむね、1817-1880)など数名の絵師がいたのですが、周延の挿絵は1面に採用されるほど人気だったそう。
(左)楊洲周延《鹿児島暴徒夜討の図》
(右)楊洲周延《鹿児島新聞 延岡大武村激戦区》いずれも1877 町田市立国際版画美術館蔵
明治を武士として、絵師として生き抜いた、楊洲周延。周延の作品からは明治を知ることができます。
左の作品には、1877年に西郷隆盛が主導して起きた鹿児島県士族の反乱、西南戦争の場面が描かれています。
武士として実際に戦場に出ていた、周延だからこそ描ける迫力と生々しい表現で、戦場の激しさが伝わります。
楊洲周延《飛鳥園遊覧之図》1888 町田市立国際版画美術館
本作は北区にある飛鳥山公園で花見をしているようすが描かれています。
中央にいる男性は明治天皇、左隣の女性は皇后で、右にいる少年は大正天皇です。
飛鳥山公園は桜の名所として有名で、浮世絵の作品にはよく使用されるそう。
奥に描かれている3本の煙突は日本初の製紙工場。明治の象徴となる明治天皇と、時代の移り変わりが描かれ、明治を感じることができる作品です。
文明開化が起き、写真の発展など目まぐるしく変化していった明治。周延は激動の時代を生き、描き続けました。
作品を通じて周延の一生を知れる本展。一部写真撮影が可能など魅力たっぷりな展覧会です!
また、本展に関連するイベントも開催します。
【町田市立国際版画美術館館長による講演会イベント「周延と明治の浮世絵」】
12月3日(日) 14:00~15:30 講堂にて 先着100名 要本展観覧券(半券可) ※手話通訳付き
【担当学芸員によるギャラリートーク】
11月25日(土) 14:00~ 約45分程度 企画展示室にて 要当日有効観覧券
さらに「揚州周延」について知りたい方は、こちらのイベントにも参加してみてはいかがでしょうか。
※会期中、展示替えがあります。
前期:2023年10月7日〜11月5日
後期:11月8日〜12月10日