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クロード・モネの世界にひたる。日本初公開作品を含む〈睡蓮〉などを堪能【国立西洋美術館】
2024年11月1日
8月15日は終戦記念日です。戦後79年が経とうとする今でも、残念ながら戦争が絶えることはありません。
この夏、スフマートでは戦争を生きた画家たちにスポットを当て、戦争や平和について考えるインタビュー特集を全4回に渡ってお届けします。
1930〜40年代を最盛期として若い芸術家たちが集まったアトリエ村「池袋モンパルナス」。
現在の西武池袋線椎名町駅や東京メトロ要町駅・千川駅周辺に、全国各地から上京した芸術家の卵たちが集い、熱い芸術論を交わしては切磋琢磨し独自の文化を築きました。
戦争は、そんな彼らの暮らしや作品にも大きな影を落としていきます。
東京23区内初の公立美術館として1979年に開館した板橋区立美術館は、地域ゆかりの作家に池袋モンパルナスで過ごした画家たちがいたことから、開館以来、関連する作品や資料を収集してきました。
その数は今では500点ほどにもなるといいます。同館の弘中智子学芸員に、戦時下の池袋モンパルナスのようすや画家たちを取り巻く制作環境ついて話を伺いました。
──池袋モンパルナスでの画家たちの暮らしぶりはどんなものだったのでしょうか?
戦後に板橋区へ引っ越してきた画家のひとり、寺田政明の妻・まさ子の話によれば、朝9時から友人がやって来て、近所の喫茶店で展覧会の相談をしたり、自宅に併設されているアトリエで仕事をしたり、夜になると飲み屋で芸術談義に花を咲かせていたりしたといいます。
絵の具や美術雑誌の貸し借りなんかも日常茶飯事。
また銭湯も情報が集まる場所だったようで、まさ子自身も銭湯で画家の赤松俊子(丸木俊)からデッサン会に誘われたこともあったのだとか。
「アトリエ長屋」とも呼ばれていたくらい住宅が密集していたので、夜中に誰かが絵を描いている姿なんかが見えると、負けじと絵を描くということもあったそうです。
画家だけでなく、彫刻家や詩人、演劇・映画関係者などさまざまな分野の芸術家たちが住んでいたので、お互いに刺激し合える環境だったと思います。
当館所蔵の池袋モンパルナス関連の資料の中でも、個人的にお気に入りのものがあります。
寺田政明が所有していた「靉光さんのオブジェ」(1935年)です。
靉光(あいみつ)が伊豆で拾ってきた地下足袋の靴底なのですが、「美しいものを見つけた」と、寺田に伊豆土産として渡したものだそうです。
寺田はこれを額装して自宅のアトリエに飾っていました。
靉光が美を見出したオブジェとして現存するという意味でも貴重ですし、友情の証であり、美を共有する2人の姿が垣間見えておもしろいですよね。
──アトリエ村で画家同士の友情も育まれていったんですね。朝から晩まで絵のことを考えていられた彼らの暮らしも、戦争が激しくなると絵の具などの画材が配給制になり絵を描くこと自体が難しくなったと聞きます。
戦時中、画材を入手するには配給を受けるための購入票が必要になりました。
当館が所蔵する貴重な資料として、寺田政明が使っていた購入票があります。これを指定の画材屋に持っていって交換していました。
この購入票もタダでもらえるものではなくて、日本美術及工芸統制協会に上納金のようなものを納めないと入手できませんでした。
画家も甲乙丙とランク付けされていて、この購入票を見ると寺田は「甲」で、ランクによって切符の枚数なども違っていたようです。
──物資的な制約だけでなく、画家たちの表現そのものに対する制約もあったのでしょうか。
屋外での制作は難しくなりました。街でスケッチなどしていたら、スパイ活動に間違えられてしまうんです。それと、裸婦も戦時中には好ましくないという理由で表立っては描くことができなくなりました。
また、当時アトリエ村の画家たちが最先端と考えていたシュルレアリスムの作品も弾圧を受けていくようになります。これはシュルレアリスムの創始者で、フランスの詩人アンドレ・ブルトンが共産党に入党したことで、シュルレアリスムそのものが共産主義とつながっていると考えられたからです。
1941年には、日本でシュルレアリスムをけん引してきた美術文化協会の福沢一郎と瀧口修造が治安維持法違反の疑いで検挙・勾留されました。
彼らは共産主義者ではなかったのですが、その頃から画家たちは“捕まらない絵”を模索するようになっていきます。
──“捕まらない絵”というのは、どのような絵なのでしょうか。
福沢たちが逮捕される以前の1940年ごろから、画家たちはシュルレアリスムが政府から危険視されているという情報をなんとなくキャッチしていました。そうした中で、西洋古典絵画を隠れみのにしたり、仏像や埴輪(はにわ)、京都の伝統的な街並みなど日本的なモチーフに関心を寄せるようになったりしていきます。
戦時中は展覧会を開くにも、オープン前に必ず特別高等警察が見て回ります。それでOKが出なければ、一部作品の出展や展覧会の開催自体が取り消しとなることもあったようでした。
当館所蔵の寺田政明の作品に、《夜(眠れる丘)》(1938年)という大きめの油彩画があります。
寺田自身が後のインタビューで答えているのですが、この作品を発表した際にタイトルに「夜」とついているだけで当時の体制に反した思想を持っていると考えられ、特別高等警察から疑いをもって見られたそうです。
特に問題なさそうな絵でも、そんな目で見られていたというのがこの時代の雰囲気を物語っていると思います。
そんなこともあり、福沢たちの一件以降、画家たちは発表の場を確保するためにもお互いの作品をチェックし合っていたのだそうです。
──チェックといっても線引きが難しいうえに、お互いを監視し合っているようでアトリエ村の雰囲気も変わってしまいそうですね。
実際、やっぱりちょっと仲が悪くなってしまったり、雰囲気が悪くなったりしたようです。
しかし、画家たちは画家である以上、作品を発表しないわけにはいかなかったので、それぞれが所属する美術団体の活動を存続させることを優先して、自分の中で譲れる範囲内で少しずつ絵画の表現を変えざるを得ませんでした。
──苦しい状況の中でも彼らが絵筆を折ることなく、どうにかして絵を描き続けてきたことには、若手であろうと画家であるプライドを感じます。
もちろん絵を描くのをやめることもできたのですが、画家の仲間たちが集う「池袋モンパルナス」という場があったからこそ、潰れることなく描き続けてこれた部分も大きいのかもしれません。
それと、絵を描き続けることで時代を伝えていかなくてはならないという気持ちも強かったのだろうと思います。
戦後、アトリエ村の若手画家たちの多くは絶対的な平和への願いを込めて絵を描き続けています。
例えば、寺田政明は水爆実験の犠牲となった第五福竜丸を描いたり、井上長三郎は韓国の光州事件やベトナム戦争を主題にしたりしています。
当館所蔵の池袋モンパルナス関連作品で、ぜひみなさんに知ってもらいたいのが、浜松小源太の《世紀の系図》(1938年)という作品です。
浜松はアトリエ村に住んでいたわけではないのですが、しょっちゅう遊びに来ていた画家です。この絵を描いた当時、浜松は板橋区内で小学校の教師をしていました。
眠っている赤子が軍服に包まれているさまは、この時代に生まれた子どもは戦争に絡め取られていくという危機的な状況を表現していて、小学校教師という視点があったからこそ描けたものだと思います。
若くして戦死してしまったため、あまり知られることはなかったのですが、語り継いでいきたい画家のひとりです。
戦争の時代を生きた若い画家たちは、「池袋モンパルナス」というコミュニティで交流を深め、仲間とともに戦争を乗り越え絵を描き続けました。
一方で、当時の画壇ですでに存在感があった画家は、どのように戦争と向き合っていたのでしょうか。
次回は、大田区立龍子記念館の木村拓也学芸員へのインタビューをお届けします。