塩田千春の作品から他者との「つながり」を考える。圧巻のインスタレーションに注目
2024年10月3日
特別展「生誕140年記念 石崎光瑤」/京都文化博物館
鮮やかな色彩で華麗な花鳥を数多く残した近代京都の日本画家・石崎光瑤(いしざきこうよう 1884-1947)。
光瑶の大回顧展が、京都文化博物館で始まりました。
富山に生まれた光瑶は、12歳の時、金沢に滞在していた江戸琳派の絵師・山本光一に師事。江戸琳派の画風と写生の基本を学びました。
〈虫類写生〉明治 29 年~36 年(1896-1903)京都市立芸術大学芸術資料館蔵 前後期で巻替え
12歳から19歳まで描いた昆虫類の写生です。正確に写し取られた昆虫類はまるで図鑑の様で、光瑶の鋭い観察力が表れています。
〈富山湾真景図〉右隻 明治 31 年(1898)頃 南砺市立福光美術館蔵
10代半ばで富山湾を六曲一双屏風に描いた〈富山湾真景図〉。波の表現にもその力量が伺えます。
父が亡くなり富山に戻った光瑶は、登山に熱中。1909年には、民間パーティとしては初めて剣岳登頂に成功し、登山家として山岳写真家としても足跡を残しています。
山で目にする高山植物も博学的態度で観察し、精緻な写生を残しています。
郷里の人の支援を受けた光瑶は、1916年11月にインドに向けて旅立ちます。
左から:『石崎光瑤使用 登山用帽子(ビスヘルメット)』、1916~1917 年『アルバム』より、第一次インド行の際の石崎光瑤の写真 『光瑶渡印百画会 金銭出納簿』大正 4 年(1915)、『石崎光瑤画伯画会人名簿』大正 4 年(1915)南砺市立福光美術館蔵
何がインドへ駆り立てたのでしょう。理由は3つほど挙げられます。
①熱帯の美しい動植物の魅力
②古代遺跡の建築、絵画、彫刻を直接観たい
③ヒマラヤの山々を望みたい
熱帯のジャングルから万年雪の寒冷地まで約9か月かけてインド各地を旅した光瑶。
日本登山家として初めてヒマラヤのマハデュム峰(3966m)の登頂にも成功しました。
《熱国妍春》大正 7 年(1918) 京都国立近代美術館蔵 前期展示
インド旅行の成果として制作した《熱国妍春》(ねっこくけんしゅん)は、大正7年(1918)の第12回文展で特選を受賞しました。
木々が生い茂る熱帯のジャングルを鮮やかな色彩で描きあげました。右隻は輪郭線をはっきり描き檳榔の巨大な葉が垂れさがり、左隻は輪郭線を描かずムワッとするような高温多湿な熱帯の密林を表現し、当時の画壇に大きな反響を呼びました。
《燦雨》大正 8 年(1919)南砺市立福光美術館蔵
翌年、第1回帝展に出品した《燦雨》(さんう)も特選を受賞し、官展での連続受賞によって近代京都画壇での地位を確立していきます。
10月1日(火)~10月14日(月・祝)には、《熱国妍春》《燦雨》《白孔雀》が京都会場限定で揃って展示されますよ。
《雪山夜色之図》大正 7 年(1918)南砺市立福光美術館蔵
ヒマラヤの峰を描いた《雪山夜色之図》は、濃密な色彩のジャングルとは対照的なモノクロの世界です。
大正11年(1922)12月ヨーロッパへの旅に出発し、各国を巡り、西洋絵画に触れたことで、特にフレスコ画に関心が深まったようです。
明治45年(1912)、第17回新古美術品展で若冲の《動植綵絵》を観て以来、若冲に強い憧れを抱いていた光瑶。
《鶏之図(若冲の模写)》左幅 大正 15 年(1926)富山市郷土博物館蔵 前期展示
京都市立絵画専門学校の助教授をしていた際、教え子の話をきっかけに、1925年に若冲の代表作《仙人掌群鶏図屏風》(重要文化財 西福寺蔵)を見出し、美術雑誌に発表しました。
《雪》大正 9 年(1920)南砺市立福光美術館蔵
若冲の影響を強く感じる濃密な画面です。
光瑶は、若冲だけでなく古画も熱心に研究していました。東西の絵画研究は、高野山金剛峯寺奥殿襖絵に結実します。
本展では、通常非公開の高野山金剛峯寺奥殿の襖絵20面が立体展示されて、うち《雪嶺》は寺外初公開です。
金剛峯寺奥殿《虹雉の間》襖絵 昭和 9 年(1934)金剛峯寺蔵 通常非公開!
「金剛峯寺」の「金剛」から「金剛宝土」の異称があるダージリンを思い、シャクナゲの咲く頃にインドを再訪し、それを元にヒマラヤの雪嶺を遠景にシャクナゲが咲いた古木に鳥が遊ぶ風景を描きました。
金剛峯寺奥殿《虹雉の間》襖絵一部 昭和 9 年(1934)金剛峯寺蔵
シャクナゲは絵具を盛って立体的に表現し、水平垂直に伸びる古木の枝からは、妙心寺天球院方丈の狩野山雪の影響が伺えます。
金剛峯寺奥殿《雪嶺》襖絵 昭和 10 年(1935)金剛峯寺蔵 寺外初公開!
土坡に描かれた白い花は、ボッティチェリ《春》やフラアンジェリコ《受胎告知》から発想を得たのかもしれません。
《惜春》昭和 6 年(1931)南砺市立福光美術館蔵
《惜春》では余白を大きくとり、描かれた主要モチーフ3つを描いています。
昭和10年代になると、余白を大きくとり、細く繊細な線で描く静かな作風になっていきます。
《黄菊白菊》昭和 14 年(1939)永青文庫 前期展示
細川護立に贈られた秋の静けさが漂う作品です。
一方で戦時下では、戦時を反映した作品を官展に出品しました。
左から:《コサギ《襲》下絵》昭和 17 年(1942)頃、《襲》昭和 17 年(1942)第 5 回新文展 南砺市立福光美術館蔵
光瑶は、中国の花鳥画へも関心を抱くようになります。
《聚芳》昭和 19 年(1944)南砺市立福光美術館蔵
応挙以来、京都画壇に引き継がれてきた「写生」を基本として、装飾性を加味し、凛とした気品ある端正で静謐な作品へと昇華していきました。
そして、戦後間もない時期に62歳で他界しました。
☆4階会場は撮影可。
☆毎週水、金曜日は20:30まで夜間延長開館