藤田嗣治×国吉康雄: 二人のパラレル・キャリア―百年目の再会/兵庫県立美術館

同時代を生きた藤田嗣治と国吉康雄の二人展【兵庫県立美術館】

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2025年6月26日

20世紀の激動の時代を移住者として生きた藤田嗣治(1886-1968)と国吉康雄(1889-1953)の二人展が、兵庫県立美術館にて開催中です。

藤田の最後のミューズ・君代が存命中の1980年代は、藤田嗣治の展覧会を開催するのは著作権処理が容易ではなく、彼女のフィルターを通したものでした。

2009年の君代夫人の死後、藤田の関連資料は、藤田の母校東京藝術大学や東京国立近代美術館などに収蔵されアーカイブ化が進み始めました。

2018年には大回顧展「没後50年 藤田嗣治展」が東京と京都で開催されました。

国吉についてもアメリカや郷土岡山においてアーカイブが整理され、漸く膨大な資料を精査し、客観的な観点から画家の展覧会を開催する事が出来るようになりました。

監修は、藤田の研究者で著書も多い林洋子・兵庫県立美術館館長です。豊富な資料と国内にある二人の代表作で、二人のパラレルな画業が9章構成で展開していきます。

対照的な二人の「移住者」としての出発点


展示風景 左から:藤田嗣治《二人の少女》1918年 軽井沢安東美術館、藤田嗣治《花を持つ少女》1918年 栃木県立美術館、藤田嗣治《パリ風景》1918年 東京国立近代美術館

東京の軍医の家で生まれ育った藤田は、東京美術学校西洋画科(現:東京藝術大学)に入学し1913年26歳でパリへ留学します。

パリ郊外を描いた《パリ風景》は、移住者にとっての原風景で藤田の初期風景画の代表作です。


国吉康雄《野性の馬》1921年 福武コレクション

岡山に生まれた国吉は、1906年16歳で労働移民として単身渡米。

西海岸で働きながら通った学校の教師の勧めで画家への道が開け、ニューヨークへ移り、アート・スチューデンツ・リーグで学びます。

1921年同時代のアメリカ美術を扱う画廊で作品が紹介され、翌年の初個展に《野性の馬》を出品しました。

異国で名声を獲得していく


展示風景:左から 藤田嗣治《舞踏会の前》1925年 公益財団法人大原芸術財団 大原美術館、藤田嗣治《五人の裸婦》1923年 東京国立近代美術館、
右から 国吉康雄《カーテンを引く子供》1923年頃 岡山県立美術館、国吉康雄《二人の赤ん坊》1923年 福武コレクション、国吉康雄《水難救助員》1924年 福武コレクション、国吉康雄《鯨に驚く姉妹》1923年 筑波大学アート・コレクション(石井昭氏寄贈)

「乳白色の裸婦」は、日本人の藤田が生み出した独自の絵画技法です。

ベッドやジュイ布も細密に描いた《五人の裸婦》は、1923年サロン・ドートンヌで発表した初めての裸婦群像の大作です。

《舞踏会の前》は、藤田の女性群像の到達点です。


展示風景:右から ロベール・ボンフィス「PARIS-1925 現代装飾美術・産業美術国際博覧会(アール・デコ博)」ポスター 1925年 京都工芸繊維大学美術工芸資料館AN.2694-43、藤田嗣治《砂の上で》1925年 姫路市立美術館、国吉康雄《茄子》1925年 個人蔵

100年前の1925年パリで「現代装飾美術・産業美術国際博覧会(アール・デコ博)」が開かれました。

「エコール・ド・パリの寵児」となった藤田は、博覧会でも多忙を極めていました。

同時期、国吉は初めて渡欧しパリにも滞在します。モデルを用いて描くようになり、現実の身体感覚を伴った人物表現のきっかけを掴み、マチエールの美しさにも気づきます。

1928年国吉はパリを再訪しますが、ニューヨーク近代美術館の「19人の現存アメリカ人による絵画展」への選出もあり、ニューヨークへ戻っていきました。

故郷に錦を飾る


展示風景:右から 国吉康雄《シュミーズの女(籐椅子に座る女)》1929年 個人蔵、国吉康雄《サーカスの女玉乗り》1930年 個人蔵、国吉康雄《休んでいるサーカスの女》1931年 福武コレクション、藤田嗣治《横たわる裸婦と猫》1931年 埼玉県立近代美術館、藤田嗣治《眠れる女》1931年 公益財団法人平野政吉美術財団

1929年藤田は日本へ一時帰国し、個展や講演、出版などをこなし、翌年ニューヨークの画廊での個展で渡米します。

この際の藤田の歓迎会での共作の色紙が、本展の準備中に発見され展示されています。

藤田は有島生馬に国吉の紹介状を書き、国吉のアトリエも訪ねました。国吉もアメリカでの評価が高まる中、1931年一時帰国し個展を開催しました。

アメリカに戻り二科展に《サーカスの女玉乗り》を出品しました。

1930年代


展示風景:左から 藤田嗣治《猫のいる静物》1939-40年 石橋財団アーティゾン美術館、藤田嗣治《猫》1940年 東京国立近代美術館、藤田嗣治《客人(糸満)》1938年 公益財団法人平野政吉美術財団、藤田嗣治《自画像》1936年 公益財団法人平野政吉美術財団

藤田は、世界恐慌もありパリを離れ、中南米を旅し1933年東京に戻ります。

一時渡仏して描いた猫の二作品を1940年の二科展に出品しました。


国吉康雄《逆さのテーブルとマスク》1940年 福武コレクション

ニューヨークに戻った国吉は、主要な年次展へ出品、母校で教え、社会的活動にも注力します。

《逆さのテーブルとマスク》は、国吉の代表作で、ホイットニー美術館の「現代アメリカ絵画年次展」に出品しました。


展示風景:左から 国吉康雄《バンダナをつけた女》1936年 福武コレクション、国吉康雄《もの思う女》1935年 福武コレクション

人種を特定させない国吉独特の色彩のユニバーサル・ウーマン(普遍的女性)です。

日米開戦下で

1941年日米開戦。


国吉康雄《戦争ポスター「敵を撲滅せよ-戦争国債を買おう」の原案》1943年 福武コレクション

国吉は「敵性外国人」となり行動も制限される。

日本に反対してアメリカ支持を表明し、戦争情報局の戦争ポスターの下絵を何枚も描きました。


展示風景:左から 国吉康雄《夜明けが来る》1944年 岡山県立美術館、藤田嗣治《十二月八日の真珠湾》1942年 東京国立近代美術館(アメリカ合衆国より無期限貸与)、藤田嗣治《ソロモン海域に於ける米兵の末路》1943年 東京国立近代美術館(アメリカ合衆国より無期限貸与)

藤田は作戦記録画の委嘱を受け、従軍して「玉砕図」も描きました。

戦後、1949年ニューヨークで

終戦を迎えた藤田は、戦争責任をささやかれるなかフランスへの帰還を目指し、1949年単身でアメリカへ出国します。


国吉康雄《祭りは終わった》1947年 岡山県立美術館

1948年ホイットニー美術館では初となる現存作家の国吉の個展が開かれました。


展示風景:右から 藤田嗣治《美しいスペイン女》1949年 豊田市美術館、藤田嗣治《ラ・フォンテーヌ頌》1949年 ポーラ美術館、藤田嗣治《カフェ》1949年 熊本県立美術館

1949年藤田はニューヨークで戦後の代表作を描き、個展を開催します。

国吉は藤田不在の個展会場を訪ね、再会は実現しなかったようです。

晩年


展示風景:左から 国吉康雄《ミスターエース》1952年 福武コレクション、藤田嗣治《二人の祈り》1952年 名古屋市美術館

国吉は1953年アメリカ国籍取得手続きの途上で亡くなりました。

パリに戻った藤田は、フランス国籍を取得、カトリックに改宗し、聖堂建設に携わったランスの大聖堂で1968年藤田の葬儀が行われました。

《二人の祈り》は、最期まで君代夫人の手元に残されていました。

対置された二人の作品を辿ると、彼らの生きた時代が浮かび上がり、藤田によって、国吉の生き方や作画、画風がより鮮明になりました。


展覧会特設ショップのトートバックやファスナーポーチなど

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