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2024年11月1日
「10分でわかるアート」は、世界中の有名な美術家たちや、美術用語などを分かりやすく紹介する連載コラムです。
作家たちのクスっと笑えてしまうエピソードや、なるほど!と、思わず人に話したくなってしまうちょっとした知識など。さまざまな切り口で、有名な作家について分かりやすく簡単に知ってもらうことを目的としています。
今回は、江戸中期に奇想の画家とも言われた「長沢芦雪」について詳しくご紹介。
「この作品を作った作家についてもう少し知りたい!」「美術用語が難しくてわからない・・・」そんな方のヒントになれば幸いです。
長沢芦雪(ながさわろせつ、1754-1799)は1754年に丹波篠山藩(現在の兵庫県)に生まれました。
武士、上杉彦右衛門の子として生まれた芦雪。その後、円山応挙(まるやまおうきょ、1733-1795)に師事し、絵を学びます。
数多くいた応挙の弟子のほとんどは町人であり、武士の子であった芦雪は異色の弟子であったといいます。
芦雪は20代後半のとき「奇想の画家」と呼ばれ、人気絵師となります。
人の目を驚かすのが大好きだったという芦雪は、大胆な構図などで人びとを夢中にさせました。
応挙のかわりに無量寺や草堂寺、成就寺(いずれも和歌山県)などにも出向き、障壁画を多く描きました。
《白象黒牛図屏風》六曲一双 18世紀
六曲一双で大きく描かれた牛と象。芦雪特有の大胆な構図で描かれています。
牛の大きさを表すために牛の足元に白い子犬が、また象の大きさを表すために、小さな黒い鳥が象の背中に描かれています。
白と黒、大と小を対比で描かれているユニークな作品です。
《絹本淡彩宮島八景図》 1794年
中国・北宋時代の文人画家である宗迪(そうてき)が、湖南省の景勝地・瀟湘(しょうしょう)の景観を8通りで描きました。
それに倣い、日本でもさまざまな八景図が描かれるようになります。
本作は、広島県廿日市市宮島町にある厳島の8つの風景を描いたものです。
右下の木々の道から流れるように目を運ぶと、中央に描かれている厳島神社。国宝にも指定されています。
奇抜な発想と大胆な構図、自由で独特な画風で描く芦雪は、応挙の一番弟子となりました。
ある日、芦雪は応挙からもらった絵手本(絵の描き方などを習うのに用いる手本のこと)を元に、絵を描くように言われます。
しかし、芦雪の性格は自由奔放で破天荒。彼はなんと応挙からもらった絵手本を自分の作品として、そのまま提出をしました。
提出された絵手本に関して、応挙はまさか自分が描いた絵手本だとは思わずに、自分自身が描いた絵に、悪いところを赤入れしてしまうのです。
そして、今度は直された絵を手本に芦雪は絵を描きます。その作品を応挙に見せると、無事に合格をもらうことができました。
しかし、結局、芦雪が最初に持ってきたのが自分の絵だったと気づき、応挙は激怒。
芦雪を破門してしまったとのこと。芦雪も懲りずに同じことをして、三度も破門になったという話もあります。
芦雪の代表作の一つである《虎図》。日本でもっとも大きな虎の絵です。
ダイナミックに描かれた迫力ある虎ですが、当時の日本では実物の虎を見ることはできませんでした。
中国画の虎を見て描いたり、猫をより猛獣化した姿をイメージしたりして描いたのだそう。
そのため、本作もどこか猫らしい印象も受けます。
その後、京都に比べて、比較的温暖な地である和歌山に約10カ月間も滞在し、約270点の作品を描きました。
当時の京都画壇をリードしていた円山応挙に入門し、早いうちから自身の作風を模索して頭角を現した長沢芦雪。
応挙の画風を継承しようとする弟子たちの中で、芦雪だけは師匠の画風の再解釈し、独自の画風の確立に努力を惜しまなかったといいます。
和歌山滞在後、芦雪は奈良や広島へ赴き、現地制作に励んでいたそう。しかし、1799年6月8日に大阪滞在中に亡くなります。享年46歳でした。
芦雪の作品のほとんどは、和歌山の無量寺や高山寺、奈良の薬師寺など寺院に所蔵されていることが多いです。
運が良ければ、美術展で観ることできますよ。
【参考書籍】
・佐藤晃子『この絵、誰の絵? 100の名作で西洋・日本美術入門』株式会社美術出版社 2008年
・辻惟雄『日本美術史』株式会社美術出版社 2015年
・安村敏信『絵師別 江戸絵画入門』株式会社東京美術 2015年
・中西一雄『基本を押さえる美術歴史』株式会社美術出版社 2016年