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2024年11月1日
ジャッカ・ドフニ 大切なものを収める家/高島屋史料館TOKYO
「ジャッカ・ドフニ」という施設を知っていますか?
それは、2012年まで北海道の網走にあった、サハリン少数民族の資料館。ウイルタ語で「大切なものを収める家」を表し、サハリンに暮らした少数民族の生活文化を伝えてきました。
その「ジャッカ・ドフニ」ができるまでの歴史と、収蔵品を紹介する展覧会が、東京の高島屋史料館TOKYOで開催されています。
会場は、高島屋史料館TOKYO 4階展示室。雪景色をイメージしたという白く薄い布で仕切られ、展示がなされています。
展示風景
第1章では、サハリン島の歴史について説明がなされています。
北海道の北側にあるサハリン島(樺太島)。そこにはもともと、サハリンアイヌ、ニブフ、そして、今回の展示の主役となるウイルタなど、複数の民族が独自の文化を守って暮らしていました。
ところが、1855年の日露通好条約によって、サハリンは日本とロシアの共同所有となったり、1875年に樺太千島交換条約によって全島がロシア領となったりと、その環境が変化していったといいます。
展示風景
そして、1905年の日露講和条約(ポーツマス条約)により、サハリン島の北緯50度に国境が引かれ、北側はロシア領、南側は日本領と、島の中で国の分断が起こります。
こうした日本とロシアの交渉は、サハリン先住民には全く相談がなく行われ、もともと島内を自由に移動して暮らしていたウイルタとニブフも、決められた集住地に住まわされるなど、その生活にも影響が生じていきます。
さらに、戦局が悪化するにつれ、サハリンの先住民たちも戦争に巻き込まれていったといいます。
続いて、第2章では「ジャッカ・ドフニ」設立の経緯が紹介されています。
時代は第二次世界大戦後。その契機となったのは、当時高校教員だった 小池喜孝が主導し、1973年から始まった「オホーツク民衆史運動」です。
「民衆に加害・被害をもたらした古い歴史観を民衆自身が自己否定し、その歴史観を押しつけた加害の元兇に抵抗する自律性をかくとくしながら、新しい歴史意識を形成すること」を目的としたその運動のなかで、1975年、ウイルタであり、網走で生活していたゲンダーヌさん(北川源太郎さん)が講和を行いました。この講和をきっかけに、ウイルタを支える活動が開始されます。
当時の写真。左から2番目がゲンダーヌさん。
そして、その活動のひとつとして、1978年に資料館「ジャッカ・ドフニ」が設立されます。網走市が土地を無償で貸与し、全国からの寄附金で建設されたその資料館は、展示室と研究室(事務室)からなり、その外壁や屋根が丸太割りで覆われました。
展示では、建設中の「ジャッカ・ドフニ」のようすや、関連された人びとの写真も展示されています。
第3章では、「ジャッカ・ドフニ」に展示されていた展示品を通じ、ウイルタの文化が紹介されています。
例えば、トナカイを飼育することを特徴としていたウイルタが、トナカイの飼育のために使用していた道具や、アザラシやトナカイの皮でつくられた衣類など。白樺の樹皮をつくって作られた容器には、独自の文様もあしらわれています。
展示風景
なお、会場の外には、《ウイルタ住居模型(スケール1/10)》も展示され、こうした道具を使用した生活のようすも伺い知ることができます。
《ウイルタ住居模型(スケール1/10)》(会場外展示風景)
また、ウイルタには、シャマンという特別な霊能力者が儀式を行うシャマニズムもありました。このシャマンが儀式などで使用していた太鼓や、「ヤークパ」と呼ばれる腰帯、「セワ」と呼ばれる木偶なども展示されています。
《セワ(木偶)》(左) と、《ウラー(飼いトナカイ)木像》(右)。
会場では、ウイルタだけでなく、サハリンアイヌ、ニブフといったサハリン島の先住民族・少数民族についても紹介されており、それぞれに異なる文化を持って生活していたようすなども伝えられています。
展示風景
ジャッカドフニは2012年に閉館し、現在、その所蔵品は北海道立北方民族博物館に収められていますが、常設展示はされていません。今回、これらの収蔵品がまとめて展示され、東京でそれらを観ることができる貴重な機会です。
会期は、2024年8月25日(日)までです。