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ハローキティ誕生50周年!「キティとわたし」を紐解く展覧会
2024年11月21日
「10分でわかるアート」は、世界中の有名な美術家たちや、美術用語などを分かりやすく紹介する連載コラムです。
作家たちのクスっと笑えてしまうエピソードや、なるほど!と、思わず人に話したくなってしまうちょっとした知識など。さまざまな切り口で、有名な作家について分かりやすく簡単に知ってもらうことを目的としています。
今回は、ターナーやコンスタンブルが描いた「風景画」について、詳しくご紹介。
「この作品を作った作家についてもう少し知りたい!」「美術用語が難しくてわからない・・・」そんな方のヒントになれば幸いです。
絵画にはかつて、フランスの王立アカデミーの学長シャルル・ド・ブランが考えたジャンルによるヒエラルキー(階級分け)がありました。
《受胎告知》や《キリストの磔刑》などのように、歴史上の出来事を描いた歴史画(物語画)が一番とされ、次は肖像画、そして最後は静物画や動物画、風景画という順番でランクがつけられていました。
なぜ歴史画が一番とされているのかというと、神に似せて創られた人間こそが、命あるもののなかで、もっとも優れているからであり、さらに複数の人物を再現して歴史や物語を描いた方が、単なる肖像画よりもスゴい! という考え方によるものだそう。
ブランは、「優れた絵画は鑑賞者の精神を高めるものである」と考えていたため、感情的な表現だけではなく、はっきりとした主題やその内容が必要であるとし、このヒエラルキーを考案したといいます。
王立アカデミーでは、ランクの低い静物画や動物をメインとして描いた動物画は、王侯貴族の室内装飾としては人気のあるジャンルでした。画家たちも、アカデミーで認められている歴史画や肖像画などを描くついでに、貴族たちにニーズのある静物画や動物画などを描いていたそうです。
やがて、絵画史上もっとも偉大な静物画家といわれるジャン・シメオン・シャルダン(1699-1779)などが、積極的にランクの低い静物画を描くようになります。
このように巨匠たちがそのジャンルに優れた作品を残すことで、階級が上がっていきました。
当時のアカデミーにおいて風景画は、絵画のジャンルとしてはあまり認知されていませんでした。
そんななか、1817年に初めてアカデミー内で歴史風景画という部門を成立します。
歴史風景画とは歴史画的な場面を有する風景画のことで、クロード・ロラン(1600-82)が描いたような、聖書や古代の物語を題材とした理想的な風景を描いたものが「風景画」として認められました。
クロード・ロラン《イサクとレベッカの結婚》1648年
絵画ジャンルの階級分けの考えが深く根付いたヨーロッパの美術の歴史では、見たままの自然を描くことは非常に新しいことだったのだそう。
そうしたなか、18世紀末から19世紀初めのイギリスとドイツで、神話の物語などの背景としてではなく、自然そのものを主役にした風景画が現れます。
イギリスの風景画を代表する画家であるジョン・コンスタブル(1776-1837)などが優れた作品を残し、また、コンスタブルと並ぶウィリアム・ターナー(1775-1851)は光と水の表現に強い関心を持ち、のちに活躍する印象派にも大きな影響を与えました。
ドイツ・ロマン主義の画家フリードリヒは、24歳のときにロマン主義が盛んなドレスデンに移り住み、苦労生活の末31歳でドイツの詩人・ゲーテ主催のコンクールで一躍有名画家となります。
カスパー・ダーヴィド・フリードリヒ《雲海の上の旅人》1817年
以降、フリードリヒは霧や氷に覆われた世界や《雲海の上の旅人》のような幻想的な大自然など、自然に対する宗教的な畏敬の念を感じさせる作品を多く発表しました。
写実主義を代表する画家であるコローは、誰も描いたことのない形式を求めて、ヨーロッパ中を旅して周り農村の風景を写実的に描き続けた風景画家です。
コローというと、ルーブル美術館所蔵の《真珠の女》が広く知られているため、肖像画家のような印象を受けますが・・・実はコローの最大の功績は、当時まだ脇役だった風景画を写実主義のひとつのジャンルとして確立させたことです。
ジャン=バティスト・カミーユ・コロー《モルトフォンテーヌの思い出》1864年
コローの制作スタイルは現場主義で、現地を必ず訪れ、あまり知られていない風景を描きました。
彼は時間が許す限り写生旅行に出けては旅先の風景をスケッチし、そして冬になるとアトリエにこもって絵の制作に取り組んでいたといいます。
江戸時代、幕府は江戸と各地を結ぶ街道を大名が往来する参勤交代のために、宿場町を形成して整備します。
庶民も経済力をつけると長旅が可能になり、街道の泊まり歩く旅を楽しむようになるなど、当時の日本では「旅行」がブームとなっていました。
この旅行ブームに合わせて、1830年代に葛飾北斎(1760-1849)や歌川広重(1797-1858)が、各地の美しい景色や旅人を描いた「名所絵」シリーズを出すと、たちまち大ヒット! 名所絵が誕生する以前、長いあいだ脇役的な描き方をされていた風景が一躍売れ筋の分野となったのです。
(左から)葛飾北斎「冨嶽三十六景 凱風快晴」1831-34年/歌川広重「東海道五十三次之内 蒲原」1833年
広重は、名所絵を極めた日本の風景画の祖として知られています。
35歳のときに「東都名所」シリーズを出版後、好評を得たことをきっかけに、広重は風景画の分野に力を注いでいくようになりました。
そして1833年、広重が37歳のとき、有名な名所絵シリーズ「東海道五十三次之内」を世に出すと、広重は名所絵を描く浮世絵師としての地位を不動のものとします。
歌川広重「東海道五十三次之内 日本橋 朝之景」1833-34年頃
また、風景画は流行に左右されにくいことから、当たれば何年も増摺(ますずり/増版のこと)できるという利点もありました。
広重は風景画にこだわり、数多くの名所絵を残しています。その各作品には情緒があふれ、登場する旅人や住民たちは生き生きと描かれています。
そして広重の描いた名所絵はやがて海を渡り、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90)やポール・セザンヌ(1839-1906)など、海外の画家たちにも大きな影響を与えました。
絵画ジャンルのひとつである「風俗画」について、歴史や代表する画家などから詳しく紹介しました。いかがでしたか。
今では人気のテーマである風景が、当時の国内外ではあまり認めれていなかったことには驚きました。
ターナーやコンスタブル、またコローなど、多くの有名画家が携わって風景画というジャンルが確立していったことをここで知っていただければ幸いです。
次回は、ラファエル前派のリーダー格である「ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ」について、詳しくご紹介します。お楽しみに!
【参考書籍】
・早坂優子『巨匠に教わる 絵画の見かた』株式会社視覚デザイン研究所 1996年
・早坂優子『鑑賞のための 西洋美術史入門』株式会社視覚デザイン研究所 2006年
・岡部昌幸 監修『西洋絵画のみかた』成美堂出版 2019年
・深光富士男『面白いほどよくわかる 浮世絵入門』河出書房新社 2019年