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ハローキティ誕生50周年!「キティとわたし」を紐解く展覧会
2024年11月21日
ゴッホ展/東京都美術館
世界最大のゴッホの個人収集家として知られるヘレーネ・クレラー=ミュラー(1869-1939)。
そんなヘレーネのコレクションが、秋の上野にオランダから来日。東京都美術館にて展覧会が好評開催中です。
※展覧会情報はこちら
展示風景
ヘレーネは、ファン・ゴッホがまだ評価され始めたばかりの1908年からおよそ20年で、90点を超える油彩画と約180点の素描・版画を収集しました。
本展では、クレラー=ミュラー美術館からファン・ゴッホの油彩画28点と素描・版画20点を展示。また、ミレー、ルノワール、ルドンなどの油彩画20点もあわせて展示し、ヘレーネの類まれなコレクションを紹介します。
さらに、ファン・ゴッホ美術館から《黄色い家(通り)》を含む4点を展示し、ファン・ゴッホの人気と評価が世界的に高まっていく背景にも迫ります。
本記事では展示構成やアンバサダー情報、かわいいグッズやコラボなどを紹介。ヘレーネという一人の女性のコレクションから読み解く「ゴッホ展」を徹底取材しました。
ヘレーネ・クレラー=ミュラーは、美術教師ヘンク・ブレマーの影響により美術に興味を持ち始めると、1907年から近代絵画の収集を始めました。彼女のコレクションはファン・ゴッホのみならず、写実主義や印象派、象徴主義の画家など多岐にわたります。
実業家の夫アントンの支えのもと、11,000点を超える驚くべきコレクションを築き上げました。
展示風景
ヘレーネはファン・ゴッホの作品に出会うと、その深い精神性や人間性に感銘を受け、世界最大のファン・ゴッホ作品の個人収集家となります。1938年にはクレラー=ミュラー美術館を開館し、初代館長に就任しました。しかし、美術館設立という長年の夢を実現した翌年、70歳でこの世を去りました。
ヘレーネは、収集したコレクションを早くから公開し、後世への継承することを意識していました。そのことから西欧美術の流れにも目を配り、18世紀以前の作品も収集したのです。
しかし、特に熱心に収集したのは、19世紀半ばから1920年代の作品です。ヘレーネのコレクションは、写実主義から印象派、新印象派、象徴主義、抽象主義まで、近代絵画の流れをたどることができます。
オディロン・ルドン《キュクロプス》1914年頃 油彩、板に貼った厚紙
クレラー=ミュラー美術館
ヘレーネは、象徴主義*の画家・オディロン・ルドンの熱烈な支持者でもありました。彼女がルドンに関心を持ったのは、美術教師ヘンク・ブレマーによる影響が大きいといわれています。もともと現実に基づいて制作された作品を好んでいた彼女は、あまりに現実離れした神話の場面に、不快感すら覚えていました。
しかし、次第にルドンの作品が持つ深みと独特の美しさを理解するようになり、数十点にも及ぶ絵画、素描、版画を収集。熱烈な支持者となりました。
《キュクロプス》に描かれている一つ目の人食い巨人は、ホメロスの『オデュッセイア』に登場するポリュフェモスです。巨人は、自らが恋に落ちた精霊ガラテアを見つめており、彼女の恋人を殺してしまいます。
ルドンは文学、神話、音楽などと向き合い、生涯にわたって象徴主義者であり続けました。
*象徴主義・・・人間の目に見えない精神世界を、神話や文学、音楽のモチーフを用いて象徴的に描くのが特徴です
1880年8月、ファン・ゴッホは画家となる決意をしました。画家になるためには、素描を習得する必要があると考え、まずミレーなどの版画作品や教本の素描見本の模写を始めます。
人物画家を目指し、1881年4月にエッテンへ移ると、農作業や手仕事をする人物を描き始めます。同年12月から暮らしたハーグでは、都市風景のほか、当時交際していたシーン・ホールニクや男女をモデルにした人物素描を制作しました。
展示風景
力強い素描や水彩画を習得し、画家になる訓練を重ねると、ファン・ゴッホは1883年12月に移り住んだニューネンの地で本格的に油彩画に着手します。お手本にしたのはバルビゾン派やハーグ派の画家で、彼らに従って暗い色調を用いて制作が行われました。
1886年2月、ファン・ゴッホはパリに到着し、画商として働く弟テオと暮らし始めます。
パリに暮らす若い前衛芸術家たちと付き合うようになり、また印象派や新印象派の作品、浮世絵版画などと出会います。ファン・ゴッホははじめは印象派のことを批判していましたが、むしろ自らの描き方が時代遅れであるということに気づき、パリで知った新しい表現を存分に取り入れていきました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《レストランの内部》1887年夏 油彩、カンヴァス
クレラー=ミュラー美術館
約2年でこれまでの表現からガラリと変化したファン・ゴッホの画風。力強く現代的な独自の様式を発展させ、限られた仲間内ではありますが前衛画家として認められるようになりました。
画家としての自信を深めたファン・ゴッホは、1888年2月に南仏の街・アルルに移り住みました。真の現代の芸術家は卓越した色彩を持っていると考えたファン・ゴッホは、特に南仏の明るい空の青と、燃えるように鮮やかな太陽の色彩である黄色の組み合わせに熱心に取り組みます。
展示風景
10月にはアルルに友人のポール・ゴーガンが合流し、影響を与え合いながら制作を行いましたが、二人の関係はこじれ、共同生活は2か月で終わりを迎えました。ゴーガンとの溝が深まり、ファン・ゴッホが自身の耳を切った“耳切り事件”は、このころに起きた出来事です。
ファン・ゴッホは、病気の発作を起こし、1889年5月にアルルを離れると、サン=レミ郊外にある療養院に自ら入院しました。体調が許せば、花が咲き誇る療養院の庭や周囲の田園風景を前に制作を行いました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のプロヴァンスの田舎道》1890年5月12-15日頃 油彩、カンヴァス
クレラー=ミュラー美術館
《夜のプロヴァンスの田舎道》は、ファン・ゴッホがサン=レミで、そしてプロヴァンスで最後に取り組んだ作品と言われています。
色調はアルルの頃より抑えられ、糸杉というプロヴァンスの典型的なモティーフを取り入れています。
ファン・ゴッホは療養院を後にし、北仏のオーヴェール=シュル=オワーズに移り住みました。制作を続けようとしましたが1890年7月に自らを撃ち、2日後に弟テオに看取られながらこの世を去りました。
本作は、ファン・ゴッホの南仏への別れの印なのかもしれません。
ヘレーネはゴッホの個人収集家として素晴らしいコレクションを持っていますが、世界最大のコレクションを持つのはファン・ゴッホ家です。
ファン・ゴッホの没後、生前に販売あるいは譲渡された一部の作品をのぞいた数多くの作品は弟テオが相続し、テオの没後はその妻ヨーと息子フィンセント・ウィレムが継承しました。
本展では、ファン・ゴッホ美術館が所蔵する4点を展示します。
フィンセント・ファン・ゴッホ《黄色い家(通り)》1888年9月 油彩、カンヴァス
ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)
《黄色い家(通り)》は、アルルにあったファン・ゴッホのアトリエを描いた作品です。
芸術家たちがともに仕事をし、刺激しあうアトリエになることを夢見ていたファン・ゴッホ。黄色い家への期待が感じられる鮮やかな色彩です。
ファン・ゴッホ家の200点を超える油彩画、500点ほどの素描、膨大な手紙、ほかの芸術家の作品群などを含むこのコレクションは、1973年、アムステルダムに開館したファン・ゴッホ美術館に永久貸与されています。
見どころ満載の「ゴッホ展」。女優の浜辺美波さんがアンバサダーを務めます。
特別番組などのPRや、会場内の展示映像などでもゴッホ展をよりわかりやすく紹介してくれるそう!
浜辺さんは音声ガイドにも登場します。さらにゴッホ展が楽しめそうですね。
「ゴッホ展」のグッズのイチオシは、サンリオの大人気キャラクター「シナモロール」とのコラボレーションです!
シナモロールがゴッホになりきり、目玉作品《夜のプロヴァンスの田舎道》と《黄色い家(通り)》を描いた本展オリジナルデザインです。
そのほか、ゴッホになりきったシナモロールのキーホルダーや香り付きラバーストラップ、ぬいぐるみなどのオリジナルアイテムを展開!
各グッズは会場限定で、東京・福岡・名古屋の各展覧会特設ショップにて販売予定です。
この展覧会でしか手に入らない限定グッズをお見逃しなく。
※ご購入はお一人様5個までとなります。また、販売状況に応じて、点数の制限を変更させていただく場合がございます。
アトレ上野では、ファン・ゴッホの絵画のコラボメニューが販売中です。
コラボメニュー対象店舗ご利用の方には「特製コースター」をプレゼントしています。
名画をモチーフにしたゴージャスな逸品とホッと一息つけるメニューで、芸術と食欲の秋を満喫してみてはいかがでしょうか。
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