塩田千春の作品から他者との「つながり」を考える。圧巻のインスタレーションに注目
2024年10月3日
8月15日は終戦記念日。
戦後79年が経とうとする今でも、残念ながら戦争が絶えることはありません。
この夏、スフマートでは戦争を生きた画家たちにスポットを当て、戦争や平和について考えるインタビュー特集を全4回に渡ってお届けします。
▼前回のインタビュー
1945年8月6日、広島に原子力爆弾(原爆)が投下されました。
広島出身の日本画家・丸木位里(いり)は、原爆投下から3日後に故郷に駆けつけ、その後を追うように位里の妻で油彩画家の丸木俊(とし)も現地を訪れ、原爆の被害を目の当たりにします。
それから5年後、ふたりは共同制作という形で《原爆の図 第1部 幽霊》を発表。以降、丸木夫妻は32年間にわたって15部にも及ぶ連作《原爆の図》を描き続けました。
原爆の図丸木美術館は、こうして描き上げた《原爆の図》を常設展示し、いつでも見られるようにとの思いを込めて丸木夫妻自らが建てた美術館です。
《原爆の図》や美術館が伝え継ぐふたりの思いについて、同館の岡村幸宣学芸員に伺いました。
──《原爆の図》は丸木夫妻の代表作ですが、元々ふたりはどのような絵を描いていたのですか。
水墨画家の丸木位里は、水墨のにじみを生かしつつ、抽象的な表現をする画家です。
当時、最先端だったシュルレアリスムに見られるようなオートマティズム(無意識的なイメージを引き出すこと)の影響も受けていて、自分だけではコントロールできない画面の作り方を考えていました。
水墨の自然なにじみは、まさにコントロールできないものですよね。
一方、油彩画家の丸木俊は、力強い線で具象的な表現をする画家です。
位里がどちらかといえば風景や生き物をよく描いていたのに対して、俊は人間を描くのが得意でした。
絵本を作るのも好きで民話の絵本をたくさん作っていて、物語性のある絵を描くのが上手。
ふたりは同じ画家といっても、絵の描き方がまるで違ったんです。
──《原爆の図》は、正反対な作風のふたりが共同制作という形で描いたのですね。
主に俊が人間を描いて、その上に位里が墨を流していくという感じで制作しています。
一時的には真っ黒になってしまうのですが、乾いてくると人間が浮かび上がってくる。位里の作風には、説明的な俊の絵を抽象化していくような力があったんだろうなと思います。
これは私の解釈ですが、画家は本来、画面すべてをひとりでコントロールします。
画家ひとりによるコントロールを「共同制作」という形で手放し、他者の存在とどう折り合っていくか。これは《原爆の図》の作品テーマにも通じるところがあります。
他者を排除するのではなく、ぶつかりながらも衝突を乗り越えて共に生きる。そういう制作方法が《原爆の図》には必要だったのかもしれないな、と。
《原爆の図》は丸木夫妻の代表作ですが、位里・俊ともに「すべて自分の思い通りにいった絵ではない」というのが重要であったと考えています。
──第1部《幽霊》には、さまよい歩く被爆者たちの姿が描かれています。よく見ると猫もいますね。
原爆で命を奪われたのは、当然人間だけではない。丸木夫妻の作品には、人間以外の生き物への眼差しがあるんですよね。
人はどうしても自分の痛みを中心に物事を閉じて考えてしまいがちです。
ですが《幽霊》に描かれた猫からは、丸木夫妻が物事を開いて見ていることが伺えます。
このようの他者に対する視線が常にあるというのは、丸木夫妻の共同制作作品の特徴です。
原爆投下後、丸木夫妻はいち早く広島に行き、1945年8月6日当日のことを描きました。
当日、広島にいなかったふたりは、絵を描く際に自身の体験だけは描くことができません。そうした中で丸木夫妻は、家族や他人の体験を吸収しながら《原爆の図》を制作していきました。
──第1部《幽霊》は、終戦から5年後の1950年2月に発表されています。少し間が空いたのは厳しい検閲など制作に制限があったからなのでしょうか。
当時日本を占領していた連合国軍が統制していたのは主に報道や出版でした。
絵画においては、検閲や没収処分を受けたという事例は見つかっていません。
《原爆の図》の制作に関しても、規制や圧力はなかったと考えられます。
ただ、《原爆の図》の展覧会は反戦、反米などの政治的な集会にもつながると捉えられていたため、当時は警察や占領軍にはマークされていました。
占領下、原爆に関する報道は禁じられていたため、一般の人びとは原爆被害の実情を知る機会はありませんでした。
ならば、原爆を忘れずに絵に描いて残そう。こうした気持ちも丸木夫妻が《原爆の図》描くきっかけとなりました。
1950年は朝鮮戦争という新たな戦争がはじまった年でもあります。
《原爆の図》を描いて発表することは、ただ単に過去の戦争の記憶を呼び起こすだけではなく、同時代に起きている戦争に対するアクションでもあったと考えられます。
──そうやって第2部《火》、第3部《水》の共同制作が続き、全国や世界各地での巡回展へとつながっていくんですね。
丸木夫妻の共同制作には、鑑賞者と直接対話して次のテーマを見つけていくライブ感があります。
ふたりは他人の痛みや証言に耳を傾け続ける姿勢をずっと貫いてきました。
その時代に起きたことに対して絵で応答していく。それを30年以上もくり返しているうちに、全15点の《原爆の図》が出来上がっていきました。
その中でも、第13部《米兵捕虜の死》(1971年)は大きな転換点でした。
《米兵捕虜の死》は、広島で被爆した米兵捕虜が報復として日本人から暴行を受けていたという事実をもとに描いた作品です。
これまで日本人を被害者と固定化して描いていた問題意識が揺さぶられます。
被害者でもあるけれども加害者にもなりうる。そういう固定化されない関係性の複雑さを描き始めた最初の作品が《米兵捕虜の死》なのです。
本作の制作の背景には、アメリカでの《原爆の図》の巡回展やベトナム戦争の影響があったと考えられます。
特にベトナム戦争が勃発した時期は、世界中で戦争に対する疑問が起っていました。
加害者と被害者の問題についても非常に複雑に考えられるようになっていた時期でもあります。
日本人が戦争の被害者だと思うことにも少なからず疑問があったのではないでしょうか。
──朝鮮人の被爆を描いた第14部《からす》も、そうした思いから描かれているのですね。
自国の被害は語っても加害は語らない。これはわりと万国共通かもしれないですが、丸木夫妻は「それでは本当の意味で戦争を考えたことにはならない」と思ったのでしょう。
日本人であれ、アメリカ人であれ、朝鮮人であれ、同じ重さの命。自分と他人と分けるのでなく、命の重みを引き寄せて戦争を考えなければいけないということは、ふたりの共同制作のうえで重要なテーマになっていきます。
丸木夫妻は《原爆の図》を描いているうちに、根本的な暴力は戦争や原爆だけではないということに気づきます。
そして、戦争がない時代にも暴力や抑圧はあると考え、公害や原発問題など幅広い主題に向き合う道を選んでいったのです。
──丸木夫妻は、鑑賞者との対話や社会の出来事に呼応しながら作品のテーマを見つけていったのですね。
そう考えると《原爆の図》は無数の人たちとの共同制作のような一面もありますね。
さらに言えば、丸木夫妻は共同制作した絵を発表する場(美術館)も自らの手でつくりました。
自分たちの考えに基づき、誰にも遠慮しないで創作活動から発表までできる拠点をつくったということは、スケールの大きい先駆的な芸術活動だと思います。
原爆の図丸木美術館は《原爆の図》を常設展示するために作られた美術館ですが、1967年の開館当初は1階の2部屋しかありませんでした。
そのため《原爆の図》すべてを展示することはできなかったのですが、何度も増改築をくり返していって、現在に至ります。
丸木夫妻は基本的に、自分たちの手を動かして物を作ることが好きだったので、美術館もどこか手跡の残る建築になっています。
2025年から改修工事が始まるのですが、当館のこれまでの変遷が垣間見られるような、歴史が感じられる改修にしていく計画です。
──美術館自体が作品のようですね。《原爆の図》をはじめとする常設展示だけでなく、今では現代作家の企画展も開催されています。どんな意図があるのでしょうか。
企画展自体は丸木夫妻が存命中から行われていたのですが、あくまでもふたりの作品世界に沿った内容が多かったように思います。
それが大きく変わったきっかけが、2011年12月に開催したChim↑Pomの展示です。
現代作家の展示を行うことで、「原爆の図」に固定化された当館のイメージが新たな観客にも開かれていくのではないかと気づきました。
今活動している作家さんの企画展を開催することで、新しい人たちが《原爆の図》と出会っていく。
そうやって《原爆の図》は歴史の中の過去の作品ではなく、「今」の時代に結びつく作品として見直されてくのではないかと考えています。
原爆の図丸木美術館の最新の企画展情報は、美術館公式サイトをご確認ください。
次回は、ちひろ美術館・東京の原島恵主任学芸員へのインタビューをお届けします。
絵本作家のいわさきちひろは、丸木夫妻が池袋モンパルナスのアトリエで開催していた早朝デッサン会にも参加し、俊とも親しく、画家として互いに影響を与え合っていたといいます。
ライフワークとして原爆や戦争の恐ろしさや悲惨さを描いた俊と、花と子どもを描き続けたちひろ。
一見すると交わることがないような両者の絵の根底には平和への願いがあります。