板倉鼎・須美子展/千葉市美術館

板倉鼎・須美子。若くして亡くなった洋画家夫妻の画業を紹介【千葉市美術館】

2024年4月23日

企画展「板倉鼎・須美子展」/千葉市美術館

千葉市美術館で、1920年代のパリで才能を評価されたものの、20代という若さで亡くなった板倉鼎(いたくらかなえ、1901-29)・須美子(すみこ、1908-34)夫妻の画業を紹介する展覧会が開催中です。

2021年に板倉鼎の作品33点を遺族より寄贈された千葉市美術館。
そのことを記念し開催される本展では、約240点の作品から板倉夫妻の作品世界の全貌を紹介します。

若くして亡くなった洋画家夫妻
板倉鼎・須美子の画業を辿る

知られざる早世の画家・板倉鼎

板倉鼎は、幼い頃から千葉県松戸市に過ごした千葉ゆかりの画家です。


(左から)板倉鼎《Convalescence(恢復期)》1924(大正13)年5月/板倉鼎《自画像》1924(大正13)年 いずれも、松戸市教育委員会

幼いころから絵を描くことが好きだったという鼎。
1919年、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に進み、在学中に早くも帝展への連続入選を果たします。

板倉家は、当時エリートとして一目置かれていた医師の家庭だったといいます。
人力車を常備し、乳母もいたという裕福な家庭で、両親の教育方針も当時としては珍しく自由で進歩的でした。


(左から)板倉鼎《木陰》1922(大正11)年/板倉鼎《小女の顔》1922(大正11)年 いずれも、松戸市教育委員会

松戸の自宅の庭で描かれた《木陰》。本作正面の愛らしい少女は、鼎の妹の弘子です。
弘子は長生きし、鼎の没後、その作品と遺品を生涯守りました。

生粋のモダンガールであった板倉須美子

板倉須美子(旧姓:昇須美子)は、1908年にロシア文学者・昇曙夢(のぼりしょむ)の長女として生まれました。


板倉鼎《須美子》1925-26(大正14-15)年 個人蔵

与謝野鉄幹・晶子夫妻や石井柏亭などによって創設された文化学院に、設立と同時に入学した須美子。
自由で文化的な環境で育った彼女は、生粋のモダンガール(モガ)でした。

そんなふたりのなれそめについて、弘子は「父の知人と須美子の叔父が熱心にまとめ上げた」と回想しています。

美術と文学にそれぞれ深い関心のあった鼎と須美子。
お似合いのカップルが誕生したことは、容易に想像できますね。

そして1925年、与謝野夫妻の媒酌により、鼎と須美子は結婚しました。

そして夫婦は翌年、ハワイ経由で芸術の都・パリに留学。活気あふれるパリで制作に励みます。

パリで鼎はロジェ・ビシエールに学び、これまでの穏やかなで写実的なスタイルを脱し、新たな表現を模索しはじめます。

「私自身の考としてもここ一年間は今までの自分をぶちこわすことにのみ費やしても惜しくはないと思います。」
「私は静物で今まで誰もがやってなかった境地を開いて見る考えです。」
という書簡も残っており、画風がどんどんと変貌していくようすが作品を通して見られます。

とくに静物画は、簡潔な形と巧みな画面構成、窓外の風景と机上の静物の組み合わせや金魚といった後年のシンボルとなるモチーフが見出されました。

須美子の代表作「ベル・ホノルル」シリーズ

須美子はもともと、絵を描いていたわけではありませんでした。

パリに渡ってから、鼎に教えてもらうかたちで油絵を始めたといいます。


板倉須美子《午後 ベル・ホノルル12》1927-28(昭和2-3)年 松戸市教育委員会

本展では、須美子の代表作「ベル・ホノルル」シリーズなど約30点が展示されています。

「ベル・ホノルル」の「ベル」はフランス語で「美しい」という意味。
本シリーズは、1926年に滞在したハワイの記憶を元に描いた須美子の作品シリーズです。


板倉須美子《ベル・ホノルル24》1928(昭和3)年 松戸市教育委員会

いずれも平面なタッチながらも、ほのぼのと描かれたやさしい色合いの作品ですね。
絵を本格的に習っていなかった須美子ですが、当時は鼎よりも評価を得ており、藤田嗣治も一目置いていたといいます。

モデルとして、妻として
鼎を支えた須美子

展示室後半にずらりと並ぶ、赤い服を着た女性像。これらはすべて、鼎が須美子を描いたものです。

1928年から翌年の春にかけて、鼎は赤い服を着た須美子を描き続けました。

鼎は、赤い服をまとった須美子像の連作を手掛けることによって、自らのトレードマークとしてなにか一つの個性を生み出そうとしていたのではないか、と考えられています。


板倉鼎《休む赤衣の女》1929(昭和4)年 個人蔵(松戸市教育委員会寄託)

ひときわ目を惹く《休む赤衣の女》。現存する鼎の作品の中で最大の作品です。

本作完成から半年足らずで、鼎はこの世を去ります。
享年28歳。その最期はあまりに突然なものでした。

本展の作品は、ふたりの画業を辿るように年代順に展示されています。

ふつうの回顧展だと、晩年の作品は作家がなにか悟り、画業の極みを感じるものが多いかと思います。

取り扱い画廊も決まり、個展の話なども出ていたという鼎。まさかこんなに早く死が訪れるとは考えていなかったのでしょう。
まだ描き続けたいという意志が感じる作品がプツンと途切れ、展示が終わります。

遺された須美子も5年後の1934年に、25歳の若さでこの世を去りました。

展示の最後には、ふたりを偲ぶ資料が並び、周囲の大きな喪失感も感じます。


(上)昇曙夢(著)『露西亜縦横記』1934(昭和9)年、章華社/(下)昇藤子「須美子の思ひ出」1936(昭和11)年 いずれも、松戸市教育委員会

「エコール・ド・パリ」真っ只中の芸術の都・パリで、その才能が評価された早世の洋画家夫妻の画業を、ていねいに辿る企画展「板倉鼎・須美子展」。

一部の展示作品は、撮影OKです。気に入った作品と一緒に、本展の感想をSNSで紹介してみてはいかがでしょうか。


板倉鼎《雲と秋果》1927(昭和2)年 松戸市教育委員会

 

 

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Exhibition Information

展覧会名
企画展 板倉鼎・須美子展
開催期間
2024年4月6日~6月16日 終了しました
会場
千葉市美術館
公式サイト
https://www.ccma-net.jp/