俵屋宗達/10分でわかるアート

10分でわかるアートとは?

10分でわかるアート」は、世界中の有名な美術家たちや、美術用語などを分かりやすく紹介する連載コラムです。

作家たちのクスっと笑えてしまうエピソードや、なるほど!と、思わず人に話したくなってしまうちょっとした知識など。さまざまな切り口で、有名な作家について分かりやすく簡単に知ってもらうことを目的としています。

今回は、国宝《風神雷神図屛風》で知られる琳派の祖、俵屋宗達(たわらや そうたつ)について詳しく紹介します。

「この作品を作った作家についてもう少し知りたい!」「美術用語が難しくてわからない・・・」そんな方のヒントになれば幸いです。

謎多き絵師・俵屋宗達とは

俵屋宗達は謎の多い絵師として有名で、宗達に関する資料はほとんど残されていません。

生没年すらも詳しく分かっていない宗達ですが、江戸時代初頭の京都で活躍していたのではないかと考えられています。

当時は徳川家康が江戸に政治の中心を置いていたため、京都は天皇や公家、裕福な町人たちによる文化の都でした。そんなムードの中、宗達は天才的な絵師として登場しました。

同時期には宗達のほかに、本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)という書と陶芸の天才も登場し、裕福な京都の町人たちは、かつての「みやびな都」をよみがえらせたいと願い、宗達や光悦らのパトロンとなり、芸術家を支えました。

まるでイタリア・フィレンツェのように、京都にも一種のルネサンスが成立したのです。

そうした裕福な町人たちに支えられた宗達。独学で絵を習得し、光悦も含む当時の一流文化人と交流します。その結果、町人たちばかりではなく、宗達は公家や武家からも支持されるようになっていきました。

一介の町絵師でありながら、1630年頃には「法橋(ほっきょう)」という僧侶に与えられる高い位を得て、天皇の命で金屏風などを描くなど、数多くの成功を収めたという記録も残っています。

時代が経った現代でも、琳派の祖として高い評価を受ける宗達。そんな宗達の代表作といえば、国宝《風神雷神図屛風》を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?

宗達の代表作を2点ご紹介します。

俵屋宗達の代表作を紹介

国宝《風神雷神図屛風》


俵屋宗達 国宝《風神雷神図屛風》二曲一双 江戸時代・17世紀前半

宗達の代表作である国宝《風神雷神図屛風》。右上には黒雲に乗って天を駆ける風神、左上には雲を蹴散らし舞い降りる雷神が描かれています。

農耕民族である日本人にとって風神雷神は、恵みの雨をもたらしてくれる幸せの使者と考えられていました。本来は千手観音の一族であり、絵画のモチーフになることはなかったとか。

しかし、宗達は独自の発想で、風神雷神を人間味あふれる神としてとらえ、神さまを人間の住む世界に近い存在としてユーモラスに描きました。

ちなみによく聞く「国宝」という言葉ですが、国宝とは日本の文化財保護法によって国が指定した有形文化財(重要文化財)のうち、世界文化の観点から価値の高く、国民の宝であるとして国(文部科学大臣)が指定したものです(文化財保護法第27条第2項)。

現在、国宝に指定されている美術工芸品や建造物などの総数は、文化庁の公式サイトによると1,130件だそう(令和3年10月1日現在)。そのうち、絵画作品は166件が指定されています。

気になる本作の制作年代ですが、いつごろ描かれたのかはっきりと分かる史料はありません。おそらく1630年代後半、晩年に描かれたものではないだろうかと考えられています。

本作は「俵屋宗達」という絵師の技術や工夫がふんだんに盛り込まれた一作です。

風神はほぼ横からとらえられ、雷神は下から見上げる視点で描かれているなど、風神雷神が屏風を駆け巡るようなイメージを、巧みな視点の切り替えによって演出しています。

こうした屏風の左右で視点を切り替える手法は、宗達が活躍した当時の屏風にしばしば見受けられます。

宗達ならではの、ダイナミックな表現を可能にしているのは、彼独自の空間のとらえ方なのでしょう。装飾的な金の平面でありながら、豊かな奥行きを感じさせる不思議な作品です。
俵屋宗達 国宝《風神雷神図屛風》(部分) 江戸時代・17世紀前半

さらに、屏風のサイズ感を越えるような広がりもイメージさせます。よく見ると、雷神の太鼓がはみ出ています。神仏の持ちものなので、画面内に収めないといけないはずなのに、ちょっぴり外に出してしまうとは・・・。

普通の絵師であればリテイクを命じられるはずですが、宗達ぐらいの有名な絵師になると、こういうことも許されるのかも?

真意は定かではありませんが、あえてはみ出して描くことで、画面外にも世界が広がっていることを鑑賞者にイメージさせようとしたのかもしれません。優れた絵師である宗達ならではの空間のとらえ方です。

本作を所蔵する京都・建仁寺の公式サイトでは、高画質で国宝《風神雷神図屛風》を見ることが可能です(現在は東京国立博物館に寄託)。

ズームもできますので、WEB上でぜひ楽しんでみてください。

京都・建仁寺公式サイト

重要文化財《蔦の細道図屛風》


俵屋宗達《蔦の細道図屏風》六曲一双のうち左隻 江戸時代・17世紀前半

本作は、国語の教科書でもおなじみの『伊勢物語』の「東下り」で主人公・在原業平一行が、駿河国(現在の静岡県)の宇津山を越える場面を描いたものです。

宇津山の暗くて細い道と、生い茂ったツタやカエデなどの植物に、業平が旅の不安感を募らせているようすをとらえています。

通常、このような物語絵と呼ばれる作品には、人物が描かれます。しかし《蔦の細道図屛風》は、人物を描かずに物語の登場人物が目にした風景を描いています。この場合は、業平が見たとされている宇津山の風景が表現されていることになります。

それでは本作を少しだけ拡大し、じっくりと観察してみましょう。


俵屋宗達《蔦の細道図屏風》(部分) 江戸時代・17世紀前半

画像左のツタの表現に注目!こちらは琳派の代表的な技法「たらしこみ」が使われています。

たらしこみとは、初めに塗った墨が乾く前に、濃度の違う墨をほどこし、両者のにじみで描いたものの量感や質感を表現する技法です。本作では、葉っぱの塗り方にこの技法を応用して、りんかく線でくくらずに濃淡や面の広がりだけで、葉っぱの重なりが表現されています。

また、画像右に書かれた言葉は、公家で書家の烏丸光廣(からすまる みつひろ)による和歌です。

光廣は、徳川幕府からの信望が厚かったそうで、実は京都と江戸をひんぱんに往復していたとされています。

東海道を歩く機会が多かった光廣。宇津山の風景を簡単に想像できたのかもしれません。そのため、本作に書かれたこの和歌は『伊勢物語』にちなんだ自作の歌だそうです。

絵と和歌が一体となってひとつの絵画世界が作り上げられていることが分かりますね。

 

国宝《風神雷神図屛風》と、重要文化財《蔦の細道図屛風》という、ふたつの宗達の代表作を紹介しました。

こんなにも日本人がよく知る作品を残しておきながら、その実態が謎に包まれている宗達。もう少しだけ、彼について探っていきましょう。

セレブのお客相手に磨いた独自のセンス

宗達は絵師のほかに、京都で扇などを売る絵屋「俵屋」を経営していました。

絵屋とは、室町時代から江戸時代に栄えた職業で、紙にさまざまな装飾をほどこして販売する店のこと。主に、色紙や短冊の下絵や加工、扇や屏風に絵をほどこしたり、染色の下絵を描いたりしていました。

宗達は、この絵屋を通して知り合った裕福な町人層を相手にセンスを磨いていきます。

そして「寛永の三筆」といわれた天才書家・本阿弥光悦との運命的な出会いを果たしました。

光悦は宗達下絵の料紙(りょうし)と呼ばれる、和歌などを書くときに使うオシャレな紙を好んで使っていたそうです。

当時の人気書家である光悦が使う料紙を見て、町の人たちは「なんてオシャレなデザインをする人なんだろうか!」と宗達のデザインを認め始めます。それにより宗達の名が世に一気に広まったそう! 光悦は宗達にとって絵師としてのデビューを与えた、いわばプロデューサーのような存在でした。

この出会いにより、宗達と光悦はタッグを組んで多くのコラボレーション作品を残しています。なかでも有名なのは、京都国立博物館に所蔵されている『鶴図下絵和歌巻』です。

本作は、宗達が料紙に金銀泥(*)で下絵を描き、その上から光悦が三十六歌仙(*)の和歌を書き連ねた作品です。14mにもおよぶ長大な巻物で、一斉に飛び立つ鶴の群れや羽を休めている姿などが巧みに描かれています。

本作は、京都国立博物館公式サイトの「データベース」で観覧できます!

京都国立博物館公式サイト データベースより「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」

*金銀泥(きんぎんでい):金銀の箔(はく)を膠(にかわ)水につけて加熱し、摩擦して泥状にしたもの。平安時代以来装飾画に使用されていました

*三十六六歌仙:藤原公任(ふじわらのきんとう)が、編さんした『三十六人撰』に載っている、飛鳥~平安時代の和歌名人36人のこと

光琳、抱一のあこがれだった宗達

国宝《風神雷神図屛風》は、宗達が絵師のプロとして幅広い技術を身に着けて完成した傑作です。

左右に配置された風神雷神が今にも動き出しそうなダイナミックな余白の取り方、金色の下地に映える絵画技法「たらしこみ」など、宗達の優れたデザイン性が存分に発揮されています。

こうした作品を残した宗達は、のちに「琳派」として活躍する尾形光琳酒井抱一にとってあこがれの存在でした。

琳派と呼ばれていますが「狩野派」のような派閥ではありません。琳派には師弟関係はなく、直接教えは受けないけれど勝手に尊敬して勝手に学ぶ。このつながりを後世の人たちが「琳派」と名付けました。

俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一という同時代を生きることのなかった3人の絵師たちを結んでいたのは、琳派のダイナミックな構図と、みやびでキラキラとした、誰が見ても「すごい!」と唸るような作品の様式でした。

また、そうした作品を屏風や掛け軸などの貴族たちが使っていた道具にとどまらず、うちわなどの日用品、陶器の絵付けなど、生活全般、空間全体をデザインするのが「琳派」の絵師たちだったのです。

おわりに

謎の多い絵師・俵屋宗達についてご紹介しました。いかがでしたでしょうか。

編集部でも、宗達について調べていくと知らないことが多くて「なるほど」という場面がたくさんありました(笑)。

そのなかでも印象的だったのが、イタリア・フィレンツェで興った美術運動「ルネサンス」に通じることが、日本国内でもあったということです。

宗達が活躍していたとされる江戸時代初期に、フィレンツェのように富裕層が芸術家たちのパトロンとなる構図がまったく同じでびっくりしました。

次回は、「琳派」について詳しくご紹介していきます。お楽しみに!

【参考書籍】
・矢島新『マンガでわかる「日本絵画」の見かた 美術展がもっと愉しくなる!』誠文堂新光社 2017年
・前田恭二『やさしく読み解く日本絵画 雪舟から広重まで』新潮社 2003年
・守屋正彦『てのひら手帖 図解 日本の絵画』東京美術 2014年