尾形光琳/10分でわかるアート

10分でわかるアートとは?

10分でわかるアート」は、世界中の有名な美術家たちや、美術用語などを分かりやすく紹介する連載コラムです。

作家たちのクスっと笑えてしまうエピソードや、なるほど!と、思わず人に話したくなってしまうちょっとした知識など。さまざまな切り口で、有名な作家について分かりやすく簡単に知ってもらうことを目的としています。

今回は、琳派を発展させた尾形光琳(おがた こうりん)について詳しくご紹介。

「この作品を作った作家についてもう少し知りたい!」「美術用語が難しくてわからない・・・」そんな方のヒントになれば幸いです。

江戸時代トップクラスのデザイナー! 尾形光琳とは?

尾形光琳(1658₋1716)は、京都有数の高級呉服商(現在でいう宮内庁御用達)・雁金屋(かりがねや)の次男として生まれました。

光琳の曽祖父、尾形堂柏(どうはく)は、琳派の始祖である俵屋宗達とタッグを組んだ天才書家・本阿弥光悦(もとあみ こうえつ)の女兄弟を嫁に迎えています。そのため、光悦と光琳は遠い親戚関係にありました。

光琳は、幼いころからさまざまな芸術に触れて育ち、また美術工芸以外にも能の知識も深かったそう。その腕前は、15歳で父と兄の藤三郎とともに能舞台に立ったほどだったそうです。

豪華な呉服に囲まれ、超一流の芸術・文化に触れて育った光琳。しかし、その生活は長くは続かず・・・雁金屋最大の顧客だった御水尾天皇の皇后・東福門院が亡くなったころから家業が傾き始めます。

それにより、彼は30代後半で職業絵師としてデビューし、江戸へ出ます。大名お抱え絵師として働き、雪舟の水墨画や狩野派、中国絵画を学びますが、江戸での生活に上手くなじめず、5年ほどで京都に戻ってしまいます。

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尾形光琳 国宝《紅白梅図屏風》二曲一双 江戸時代・18世紀

京都に戻ると江戸での経験と持ち前のセンスで目覚ましい活躍を見せるようになり、代表作の一つである国宝《紅白梅図屏風》など、数多くの名作誕生へとつなげました。

光琳はとっても派手好きで、遊び人だった?

光琳の代表作の一つである国宝《燕子花図屛風》は、現代人の感覚からでも、まったく古さを感じさせない、誰もが認める傑作のひとつとして知られています。

国語の教科書でおなじみの『伊勢物語』に登場するかきつばたの名所を描いた本作。主人公である在原業平や風景などはすべて省略し、リズミカルに配置したかきつばたの花だけで構成されているのが特徴です。

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本作を制作する際、光琳は家業の呉服屋で用いた着物の型紙を下書きに使いました。こうした独創的なアイデアや、「自分の表現したいものを描く」というハッキリとした意志が感じられる点などから、光琳らしい新しい作品だと言われています。

ちなみに、国宝《燕子花図屛風》を所蔵する根津美術館では、毎年、同館の庭園にかきつばたが咲く4月末から5月ごろに展示されますよ。機会があったら、ぜひ根津美術館で本物を観てみてください♪

根津美術館公式サイト

こうした傑作を数多く生みだした光琳ですが、実はかなりの遊び人だったそう。女性との交際も華やかで、30歳前後で結婚しましたが、トラブルが絶えず・・・。

32歳で女性から子どもの認知をめぐって訴えられ、家屋敷や金銭など差し出して穏便に済ませようと交渉に持ち込んだという話も残っています。 正妻を含め、6人の妻と7人の子どもがいたとか。かなりのプレイボーイだったようですよ。

光琳が活躍した時代・元禄年間とは?

光琳が活躍し始めたのは、琳派誕生から約100年後の京都でした。そして、彼が生まれた時代は元禄年間(1688~1704)と呼ばれる、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉が治世を敷いた時代です。

徳川幕府は初代将軍・家康、2代・秀忠、3代・家光の3代の間に幕藩体制を整え、4代・家綱を経て綱吉の代には最盛期を迎えます。
経済的には、積極的な新田開発や農業技術、器具の改良などにより、農業生産力が増大。商品流通の拡大につれて貨幣経済が発展し、大阪や京都をはじめとする商業都市が栄えました。

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(左)菱川師宣 国宝《見返り美人図》江戸時代 17世紀/(右上)尾形光琳 国宝《燕子花図屛風》六曲一双 江戸時代・18世紀(右下)狩野探幽 重要文化財《雪中梅竹遊禽図襖》1634年

絵画の分野では、幕府や大名のお抱え絵師である狩野派や、朝廷絵師の土佐派などが支配層の保護を受け、安定した絵画作品を制作しました。

これに対して、京都の裕福な町人たちに支えられた琳派は、新しい時代を感じさせる名品をいくつも世に送り出します。光琳はその中でも、光悦や宗達の技法を取り入れて琳派を発展させ、絵画や蒔絵(まきえ)に新しい風を吹き込み、人びとの心をガッチリと掴みました。

これらはいずれも高級感のある作品であったのに対して、東京国立博物館が所蔵する国宝《見返り美人図》の作者として知られる菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)たちは、庶民に受け入れられやすい風俗画を残します。

元禄年間は、経済の安定により武士や裕福な町人たちのみならず、庶民や地方の人たちにまでに多彩な文化が受け入れられる「庶民文化」の幕開けとなった時代なのです。

光琳と乾山は「琳派ブラザーズ」!

光琳には、5歳離れた尾形乾山(けんざん)という弟がいます。

乾山はやきものの道を選び、二条家から窯を譲られて「乾山窯」を開きました。 初期の頃のやきものの絵付けは、すべて兄である光琳が行うなど、兄弟の仲は良好だったと考えられています。

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根っからの遊び人だった兄・光琳を見て育ったためなのか、弟の乾山は勤勉で読書が好きの大人しい性格だったそう。さらに生涯独身を貫いたといいます。

そんな真面目な弟の目からは、光琳はどのように映ってたいたのか気になるところです。

おわりに

現在でも、広く使われている「琳派」という流派名は、尾形光琳の名前に由来しているそう。もともと「琳」の字は輝く珠玉を意味し、光琳の造形の金銀彩色のきらきらとしたイメージにぴったり合っています。

光琳がデザインしたモチーフは「光琳梅」や「光琳波」をはじめ「光琳模様」と呼ばれ、今もなお多くの人たちを魅了しています。

残した作品に負けないくらいインパクトの強い人生を送った光琳。時代を越えても愛されているのは、その人柄もあったのかもしれませんね。

次回は、日本で発案された大画面の絵画様式「屏風絵」について、詳しくご紹介していきます。お楽しみに!

【参考書籍】
・矢島新『マンガでわかる「日本絵画」の見かた 美術展がもっと愉しくなる!』誠文堂新光社 2017年
・守屋正彦『てのひら手帖 図解 日本の絵画』東京美術 2014年
・河野元昭 監修『年譜でたどる琳派400年』株式会社 淡交社 2015年