ある画家の肖像 金山平三と同時代の画家たち/兵庫県立美術館

画面から溢れんばかりの美しい花の絵に息をのむ作品を兵庫県立美術館で【読者レビュー】

2023年6月16日

ある画家の肖像 金山平三と同時代の画家たち/兵庫県立美術館


金山平三《菊》1928年 東京国立近代美術館蔵
第9回帝展出品作品で宮内省買い上げとなった作品です。

洋画家・金山平三(かなやま へいぞう、1883-1964)をどれほどの方がご存じなのでしょう。

兵庫県立美術館には「金山平三記念室」があります。兵庫県ゆかりの画家で、現在「ある画家の肖像 金山平三と同時代の画家たち」が開催中です。
金山平三亡き後、夫人から兵庫県へ作品が寄贈され、日本で2番目の公立美術館である兵庫県立近代美術館設立のきっかけとなりました。

本展の特徴
① 5章構成で画家をさまざまな側面からアプローチ。
② 金山平三の技法に注目!描く部分、作品によって技法を使い分けています。
③ 豊富なアーカイブと作品を併せて楽しむ。


金山平三《自画像》1909年 東京藝術大学
所謂、誰もが制作してきた藝大の卒業作品です。

1883年(明治16)に神戸元町で金山平三は生まれました。10代で上京し、生涯の大半を東京で暮らしました。東京美術学校に入り、卒業時成績トップで卒業式には総代として答辞を述べています。

交友関係として、新井完(1885-1964)、柚木久太(1885-1970)、先輩に当たる満谷国四郎(1874-1936)が作品と共に紹介されています。


満谷国四郎《戦の話》1906年 倉敷市立美術館

初期作品《漁夫》に示唆を与えたかもしれない、満谷国四郎の《戦の話》はカラヴァッジョの《マタイの召命》の様にみえました。


左から:金山平三 習作《男女坐像》1913-1915年頃 習作《男裸像》1913年頃 兵庫県立美術館

金山は、1912年から1915年までフランスを中心としてヨーロッパに滞在します。滞欧中に画学校で学んだ記述は図録などにありません。師の黒田清輝を彷彿とさせる作品が多く「黒田清輝の秘蔵っ子」と言われたはずです。同じ頃滞仏中の島崎藤村が周辺の日本人の様子を『エトランゼ 仏蘭西旅行者の群』に綴っており、藤田嗣治(1886-1968)も登場します。

帰国後《金山平三像》を描いた児島虎次郎(1881-1929)や、太田喜二郎(1883-1951)はベルギーへ留学中でした。金山は、多くの友人や先輩と交友関係を持ち、互いに刺激を受けながら制作を続けました。


金山平三《夏の内海》1916年 東京国立近代美術館

金山の画壇デビュー作ともいえる《夏の内海》は、第10回文展で特選二席となりました。画面奥に向かってぐっと目が誘われるようで後半生の風景画にも通じます。1918年新井完と朝鮮、満州へ、1924年に壁画制作の取材も兼ねて満谷国四郎と(後に児島虎次郎も同行)中国を旅します。

西洋でも日本でもない風景、風俗は魅力的だったでしょう。金山は弱冠35歳で帝展審査員を務めます。


金山平三《祭り》1915-1934年 個人蔵

《祭り》は、新出の作品です。『金山平三画集』や写真アルバムにもない作品ですが、サインがあり、デッサン帖に同じポーズの人物が見つかったことなどから金山の作品として展示される事になりました。


金山平三《画稿(日清役平壌戦》1924-1933年 兵庫県立美術館

聖徳記念絵画館に納める明治天皇の生涯の事績を描く壁画制作に当時日本を代表する画家76人が選出されました。金山もその一人として1924年神戸市献納画《日清役平壌戦》の制作を委嘱されました。動的情景を表現したかった金山は、突撃寸前の緊迫の一瞬を描きました。絵具の変色を危惧して長く画室にとめ置き、1933年末絵画館へ作品を納入しました。9年の歳月を費やした金山前半生の集大成作品です。


金山平三《もう行くぞえ》1928-60年頃 兵庫県立美術館 題箋も金山平三筆

芝居が好きな画家は多く、衣装や役者の決めポーズや動きなども面白かったのでしょう。大病を患って療養中の手すさびとして描き始めたとされる芝居絵ですが、かなりののめり込みようでした。


金山平三《静物》1917-1934年 笠間日動美術館

花瓶から溢れんばかりの花の絵が並ぶ展示室は、ハッと息をのむようです。金山は「売るための絵は描かなかった」のですが、優美で気品漂う花の絵は人気があり、どうしてもとの求めに応じて花の絵を描きました。


金山平三 《こち》1945-1956年 東京国立近代美術館
額が鱗模様?

金山の静物画の特徴は、奥行きがなく、テーブルの「角」をほとんど描かず、年を追うごとに背後の壁とテーブルの境界が徐々に目立たなくなっていきます。


金山平三《冬の諏訪湖》1921年 兵庫県立美術館(寄託)

金山は風景画を描くため、不便な時代に列車を乗り継いで出かけ、旅先から手紙を出し帰りは妻が最寄駅で迎えました。雪景色の作品も多く、今の様な防寒着もない時代に外でのスケッチも寒かったでしょう。

林洋子館長が風景画を前に「今見ても全く古びてない」とお話になって、それで違和感なくすっと入ってくるのかと。


金山平三《猫のいる風景》東京国立近代美術館
手前に描かれた小さな猫をお見逃しなく。

1935年の帝展改組とその後の混乱で中央から離れて制作を続けました。1944年同時代の錚々たる芸術家と共に金山も帝室技芸員に任命されました。1957年には日本芸術院会員に任命されています。
日本初の女性理学士である妻らくは、自分キャリアを捨て生涯夫を支えました。

章ごとに画家の新しい面が見え、「へーっ!」に満ちた展覧会でした。
図録に、金山は、「最初期から晩年に至るまでその画風を大きく変化させることなく」とあり、生涯を通じて野望の様なものは見えず、作品制作に真摯に向き合った画家だったと思いました。