小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌/東京ステーションギャラリー

東京駅で旅する画家・小早川秋聲の大回顧展が開催。初公開の戦争画など多数出品

2021年11月3日

小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌/東京ステーションギャラリー

大正から昭和にかけて、京都を中心に活躍した日本画家・小早川秋聲(こばやかわしゅうせい/1885-1974)。

東京ステーションギャラリーで、小早川秋聲の画業を見渡す、初の大規模な回顧展が開催中です。


《愷陣》1930年、個人蔵

本展では、秋聲の初期から晩年にいたる作品約110点および資料を展示。個人コレクションを中心に、新たに発見された戦争画などの初公開作品もあわせて紹介します。

※展覧会詳細はこちら

画家・小早川秋聲とは

小早川秋聲(本名・盈麿(みつまろ))は、鳥取の光徳寺住職の長男として生まれました。

9歳で京都・東本願寺に出家。幼いころから、おやつの代わりに半紙を欲しがるほど絵が好きで、12歳のころからは熱心に博物館へ通い、展示品を模写していたそうです。

16歳になると画家になることを志し、日本画家の谷口香嶠(こうきょう)や山元春挙(しゅんきょ)に弟子入りします。そこで文展や帝展を中心に入選を重ね、画技を磨きました。


(左から)《國之楯》1944年、京都霊山護国神社(日南町美術館寄託)/《國之楯》(下絵)1944年、個人蔵

1931(昭和6)年の満州事変勃発以降、従軍画家としてたびたび戦地に派遣され、多くの戦争画を描いた秋聲。

そのうちの1枚《國之楯》は、軍に受け取りを拒否され、長いあいだ未公開作品とされていましたが、戦後、秋聲自身の手で改作し、現在では代表作として知られています。

従軍中の疲労がたたり、内臓を病んでしまったため、1947年以降は画壇への出品を控えるようになりますが、制作は変わらず続けていたそう。雑誌への絵と文の執筆を盛んに行っていたといいます。

1974年の冬、老衰により88歳の生涯に幕を閉じました。秋聲の最期の絵は、亡くなる6時間前に長女・和子が届けたチョコレートケーキのスケッチだったといいます。

京都での修業時代

1901年ごろから、歴史画を得意とする谷口香嶠の京都の画塾「自邇(じじ)会」に通うようになった秋聲。そこでは、師である香嶠から学んだ歴史画を多く描きました。

写真左から2枚目の作品《譽之的(ほまれのまと)》は、師の教えに忠実な秋聲の技能がうかがえる作品です。


(左から)《長江所見》1916年、個人蔵/《誉之的》明治末期~大正期、個人蔵/《楠公父子》明治末期~大正期、個人蔵 ※展示風景は前期展示のもの

1909年、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)が開校すると、香嶠が同校教授となったこともあり、秋聲も一旦入学します。

しかし、すぐに退学して東洋美術の研究のために中国へ渡航。ここから、「旅する画家」として小早川秋聲の画家人生がスタートしました。

国内外を旅した画家・小早川秋聲

東洋美術の研究などに約1年を費やした後、秋聲は東南アジア、インド、エジプトまで旅をします。

その後1922年春、ヨーロッパのイタリアやドイツ、オーストリア、ハンガリー、スイス、イギリスなど十数ヵ国を約1年かけて遊学しました。
また、1926年には日本美術を紹介の通して、アメリカの対日感情を好転させるよう要請されて、北米大陸を4ヵ月間で横断し、展覧会や講演会を開くなどしていました。


(左から)《五月晴》1931年、個人蔵/《長崎へ航く》1931年、個人蔵 ※展示風景は前期展示のもの

秋聲は、こうした外国での知見を元に《長崎へ航く》など、外国風景を画題に選ぶこともありました。
また、このころ帝展に相次いで大作を発表。第十一回帝展に出品した《愷陣(がいじん)》から、推薦(永久無鑑査)となり、世間に認められる画家となりました。

まさに脂ののった時期だった秋聲。今後の活躍も期待されていましたが、時代は戦争へと向かっていました。

従軍画家としての秋聲

1931年の満州事変や、1937年の盧溝橋事件をきっかけに、日本は戦争へと突き進み、秋聲は主に従軍画家として、満州、中国へしばしば軍隊とともに行くようになります。

秋聲は、戦闘シーンや軍人の勇姿、富士山と日の出といった国威発揚(*)の風景画だけでなく、戦地での日常風景も描いています。

*国威発揚(こくいはつよう):国家が国外へ威光を示すこと。

(左から)《回顧》1935年、個人蔵/《護国》1934年、個人蔵/《御旗》1936年、京都霊山護国神社(日南町美術館寄託)

《御旗》のような抒情性ある画面は、秋聲の戦争画の特徴のひとつです。

また終戦の1年半前の作である《國之楯》は、はじめ、横たわる兵士の上に円光がかかり、さらに、その死を美化するように桜の花びらが散らされていたといわれています。


《國之楯》1944年、京都霊山護国神社(日南町美術館寄託)

しかし、陸軍省から受け取りを拒否され、秋聲はのちに背景を黒く塗りつぶしました。その理由は定かではありませんが、改作によって作品の印象は大きく変わったといえるでしょう。

 

美術史上では、長らく忘れられた存在だった小早川秋聲の画業を紹介する本展。

近年、従軍画家による戦争画が注目されるなかで秋聲の作品も再評価され始めています。小早川家ゆかりの鳥取県にある日南町美術館を中心に、今後もさらなる研究が期待されています。

この機会にぜひ、皆さんも東京ステーションギャラリーへ足を運び、秋聲の作品を観てみてはいかがでしょうか。

小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌 展示風景より ※展示風景は前期展示のもの

(手前)《未来》1926年、個人蔵

(左から)《絶目盡吾郷》(成吉欺汗)1932年、個人蔵/《虫の音》1938年、個人蔵

(左から)《聖火は走る》1963年、個人蔵/《聖母子像》1945~74年、圓重寺

Exhibition Information

展覧会名
小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌
開催期間
2021年10月9日~11月28日 終了しました
会場
東京ステーションギャラリー
公式サイト
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/
注意事項

入館チケットは原則として日時指定の事前購入制(ローソンチケットで販売)
ただしローソンチケットの残数に余裕のある場合に限り美術館で当日券を販売