【夏の特別インタビュー】東京大空襲・戦災資料センター 比江島 大和学芸員

2023年7月21日

8月15日は終戦記念日です。終戦からまもなく78年ですが、現在もこの世界で戦争は起こり続けています。

今夏、スフマートでは戦争や平和に関するテーマを取り扱う4つの館にインタビューしました。1か月の集中連載で毎週お届けします。

空襲の惨禍を次世代へ伝える「東京大空襲・戦災資料センター」の試みとは?

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月10日。アメリカ軍の爆撃機B29による無差別爆撃により、東京の下町一帯は火の海となり、およそ10万人の尊い命が失われました。

東京大空襲で大きな被害を受けた地、江東区北砂にある東京大空襲・戦災資料センターは、東京の空襲を専門に扱う唯一の博物館です。

あの日、東京に何が起こり、人びとはどのような体験をしたのか。

展示を通して被害の実態を伝え、ガイドツアーや体験者による講話などの催しを実施している、比江島 大和学芸員にお話を伺いました。


東京大空襲・戦災資料センター 比江島 大和学芸員

──展示を見せていただいて、想像以上の被害の大きさに衝撃を受けました。日本史の授業で教わったはずだったのですが・・・。

東京大空襲を受けた下町というと、上野や浅草あたりのイメージがあるかもしれません。実際、上野公園や浅草寺にも焼けた木が残っていたりするのですが、隅田川から東側の地域でもかなりの犠牲者が出ているんです。川や運河に挟まれていて逃げられなかった場所ですから。

センターの建つこの土地も、空襲を体験された方が無償で寄贈してくださったそうです。このあたりは、東京大空襲で最も被害が大きかった場所のひとつでもありまして、センターがここに建っているということには、そういう理由や意味があるんです。


当時の暮らしぶりや空襲の惨状を伝える資料が並ぶ展示室

──空襲に遭った人たちの証言展示は、まるで自分も体験しているかのように生々しく胸に迫ります。

空襲のまっただ中に撮られた写真は、火災を遠くから撮影したものが少しあるだけで、それ以外に残っている画像や映像は翌朝以降のものなんです。戦後、昭和28年に東京都が作成した『東京都戦災誌』に載っている情報も、公的な機関が記録した、被害状況や死者数などのデータが中心です。


1945年3月10日の午前0時8分。多くの人びとが空襲により命を奪われた

つまり、3月10日の夜、炎の中で人びとがどんな目にあって、どんな思いをして、どう生き残ったり傷ついたりしたのかは、生き残った人の証言からしかわからない。

このままではデータだけしか残らず風化していってしまうと、1970年代に入ってから、のちに当センターの初代館長となる早乙女勝元たちが中心になり、「東京大空襲を記録する会」をつくり、市民運動として証言や資料を集め、空襲の実態を掘り起こしはじめました。そのようにしてつくられたのが、全5巻からなる『東京大空襲・戦災誌』という本です。

2階の展示室では、この本の中から体験記を抜粋して展示しています。

──体験画も合わせて展示されていますね。炎に包まれた街や、川に逃げた人たちを乗せた船も燃えていたり…。絵はどのようにして集められたんでしょうか。


体験画と体験記が並ぶ2階展示室

2階の体験画は、すみだ郷土文化資料館からお借りしたものです。すみだ郷土文化資料館では、体験された方が描いた絵を収集し、そこからご本人に体験もうかがっているそうです。

1階に展示されている連作の体験画は、当センターが所蔵しているものです。当時この近くに住んでいた坂井輝松さんという方が、空襲で生き残って翌朝電車で親戚の家にたどり着くまでのことが連作で描かれています。

もともとは絵を3枚ずつテープで貼り付けた台紙が20枚セットになった作品で、冒頭には「戦後50年目にようやく、亡くなった人のためにどうしても残しておきたいと思ってまとめた」と書かれています。

2020年に当センターをリニューアルするタイミングで大々的に展示したいと考えていた時、娘さんから亡くなられたと連絡があって…。ご本人にお会いすることは叶いませんでしたが、「大事な資料、展示の一つです」と娘さんにお伝えしたところ、原画を寄贈してくださいました。

こうした絵やお話を残してくださった方の後ろには、亡くなってしまった方、生きているうちにはまったくお話しなかった、そしてできなかった方がたくさんいるはずなんです。

苦しみながらも体験を残してくれた人たちのおかげで、わずかな写真しか残っていない、空襲のまっただ中の状況の一部を知ることができるのだということは、肝に銘じています。

──1階は世界の空襲の歴史や、現代の空襲まで幅広く取り上げた展示ですね。
日本軍が中華民国(現在の中国)の重慶を空爆したことにも触れられています。展示の切り口などで、心がけていることはありますか?

戦争や空襲の中で被害を受けるのは「人びと」で、日本がやった空襲も受けた空襲も、本質は変わらないんだというのが、展示共通のスタンスです。

民立民営の施設であるという利点を生かして、どちらが加害側でどちらが被害を受けた側なのか、侵略した側なのかされた側なのかという観点ではなく、空襲で犠牲になった人や生き残った人をはじめ、戦災孤児の人、朝鮮の人、亡くなった人など、個々人の立場に立った視点を心がけています。

──YouTubeでの動画公開や、体験講話などのイベントも開催されています。若い世代に東京大空襲を伝える上で、意識されていることはありますか?

「戦争」や「空襲」への前提知識が違う世代に、どういった切り口で展示するかは考えています。

リニューアル前は、2階の展示室に入って正面にB29を置いていました。我々からすると「あ、空襲した飛行機だ」と分かるのですが、そうした知識の無い人からすれば、ただ「カッコいい」というイメージになる可能性もありますよね。

リニューアル後は、インパクトのある冒頭にではなく廊下に展示しています。

銀座や浅草の写真も展示していますが、これは現代の子どもたちもニュース映像などで同じ光景を観たことがあると思います。
「知ってる場所の写真が、何でこの資料館にあるの?」という切り口です。

また、1階にある空襲の歴史年表は、後ろから見ていくと、ウクライナや9.11など、若い人たちも知っている出来事が並んでいます。そこからさらに遡っていくと東京大空襲があって、その前にゲルニカがあって・・・。今、自分が生きている同じ時間軸が、かつての戦争や空襲につながっているんだという気づきになればと思い、展示しています。

センターでも体験者のお話を聞くことができますが、もし聞けるようなら、身の回りの体験者の方にも会って、お話を聞いていただきたいです。空襲を体験された方も80代後半以上の年齢になりつつあります。今しか聞けないと思いますので。

──さいごに、戦争のない平和をつくるために、私たちができることって何でしょうか?

何だと思いますか?
よく質問されるのですが、こういう返しをしています。
「これが正解です。こうするべきです」と具体的に答えるのは、ベクトルは違いますが戦時中の教育と同じことをしていることになるかもしれないと思うからです。

人間、我が身が可愛いところがあるから、戦争のニュースを観て「ああ・・・」と思っていても、例えば転んでケガをしたら、遠くはなれた他人のことよりも自分のことで頭がいっぱいになったりします。でも、自分が経験していないことや他人のいたみを想像することも、やはり人間だからこそできるのだと思います。

知って、自分で考えてみて、仲間や家族と話をして・・・時には議論もあるでしょう。大変だしかなり時間がかかるかもしれないけれど、周りの人を巻き込んで落としどころを見つけながら合意を作っていくことで、皆が納得できる世界が少しずつできていくのではないでしょうか。

 

第2週目は、平和祈念展示資料館にお話を伺います。

(2023年7月28日公開予定)

Museum Information

美術館情報
東京大空襲・戦災資料センター
住所
東京都江東区北砂1丁目5-4
公式サイト
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