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2024年11月1日
決定版! 女性画家たちの大阪/大阪中之島美術館
「女絵師女うたびとなど多く 浪華は春も早く来るらし」 吉井勇
島成園《囃子》昭和2年 有形文化財 神田の家「井政」
昭和2年の第8回帝展入選作、成園の官展最終入選作
明治から大正、昭和にかけて活躍した大阪ゆかりの女性日本画家の展覧会が好評開催中です。
展示される女性日本画家は59名、出品作品数は186点(通期85点、前期49点、後期52点)、特別展示の着物2点と関連資料で近代大阪の女性日本画家とその作品を紹介します。
島成園《灯籠流し》大正5年 関和男氏蔵
第10回文展落選作。鏑木清方は本作の落選を惜しみました。
近代の日本画は、官展での入選回数と入賞歴が画家を評価する基準の1つとなっています。
1907年~1932年の女性画家の官展入選率は、全体の4%、大正時代では、東京・京都・大阪の中で大阪の女性画家は「入選回数」「入選作家数」1位でした。
島成園《祭りのよそおい》大正2年 大阪中之島美術館 第7回文展褒状受賞作。愛らしい少女たちの中に的格差を示唆し、文展の女性画に社会性を持ち込みました。
本展は、5章構成、第1,2,5章は人物画、3,4章は文人画(南画)、花鳥画、風俗画を展示しています。
展示作品の7割以上に作風や制作意図、画家についての解説が付されています。
左から:島成園《紅葉二美人》明治末-大正前期 秋桜文庫、島成園《宗右衛門町之夕》大正元年頃 個人蔵
《宗右衛門町之夕》は、第6回文展褒状受賞作《宗右衛門町の夕》の姉妹作
島成園(しま せいえん、1892-1970)は、図案家の兄である島御風の仕事の手伝いながら絵を独習し、特別な師はいませんでした。
大正元年二十歳の年に《宗右衛門町の夕》が第6回文部省美術展覧会に入選し文展デビューを果たします。京都の上村松園、東京の池田蕉園と共に「三都の三園」と称され、大正時代の始まりにメディアでも全国的に報じられ、「女性画家」は社会一般からも関心を向けられました。
大正元年 第6回文展褒状 島成園《宗右衛門町の夕》大阪市立美術館
審査委員には、川合玉堂、横山大観、竹内栖鳳、山元春挙、今尾景年などが名を連ねています。
左から:島成園《伽羅の薫》大正9年 大阪市立美術館 第2回帝展入選作、島成園《無題》大正7年 大阪市立美術館
《無題》は、成園に痣はないが自画像です。一人の画家としてよりも若い女性画家として注目されることへの葛藤をこの女性像で語っているようです。
《伽羅の薫》では年増の太夫の「傷ましい濃絶さ」を表現しようとしました。これらの作品に対しても心無い批判はありましたが、それも承知の上で描いたのでしょう。
左から:島成園《上海にて》大正14年頃 大阪市立美術館、島成園《上海娘》大正13年 大阪市立美術館、海外生活で本格的に絵を残したのは上海だけでした。《上海にて》の背景の幕には地模様が描かれています。
二十歳で文展入賞した島成園は、女性たちの憧れとなり、絵筆を持つ女性たちが若い成園の画塾へ集まりました。
島成園《お客様(原題・祭りの客)》昭和4年 高島屋史料室 第10回帝展落選作。前年も落選し、今度こそはと描いた作品でしたが。
成園は、縁談を受け入れた頃より思うように制作が出来なくなっていきました。
銀行員の夫の転勤に伴って国内外を転々とし、第二次世界大戦後大阪へ戻り、晩年まで小品を描きました。
左から:島成園《西鶴のおまん》大正5年(個人蔵 ゾクッとするような流し目です。
岡本更園《西鶴のお夏》大正5年 個人蔵
20代前半で文展に入選した岡本更園(おかもと こうえん)、木谷千種(きたに ちぐさ)、松本華羊(まつもと かよう)と成園の4人で、井原西鶴の『好色五人女』を研究し、大正5年にその成果として「女四人の会」で発表しました。
女四人の会(大坂三越)大正5年 大阪中之島美術館 左から岡本更園、吉岡(木谷)千草、島成園、松本華羊
見目も良い若い女性画家4人は、アイドル的な人気にもなりますが、「若い女性による生意気な行動だ」と理不尽な批判もありました。
木谷千種《をんごく》大正7年 大阪中之島美術館、第12回文展入選作。幼くして亡くなった異母弟の追福のために描いた作品です。
木谷千種は、10代前半に渡米して現地の小学校に通いました。池田蕉園の塾で学び、北野恒富や菊池啓月にも師事しました。
木谷千種《化粧(原題・不老の願い)》昭和2年 個人蔵 第8回帝展落選作。米国からの里帰り作品。鈴木商店三代目鈴木三郎助の妻 公子がモデル。
木谷千種《綻び》昭和3年 木原文庫 米国からの里帰り作品。2歳で死別した母の記憶はなかったでしょう、母へのオマージュとして描いたものでしょう。
また、木谷は画塾「八千草会」を設立し多くの後進を育てました。さらに近松研究家と結婚したことで、知識や興味、仕事の幅も広がり、官展や本の装幀や挿絵など幅広い分野で長く活躍しました。
松本華羊《殉教(伴天連お春)》大正7年頃 福富太郎コレクション資料室 第12回文展落選作。福富太郎コレクションということにも頷けます。
《殉教(伴天連お春)》は、蕉園門下でもあった松本華羊の代表作です。展覧会での評価は時代背景や審査員にも左右されたのではないでしょうか。
松本華羊《静寛院宮絵姿》大正時代 実践女子大学図書館
こちらは実践女子学園創設者下田歌子ゆかりの品で初展示作品です。
南画は女性も活躍していました。
跡見学校創設者跡見花蹊や女性初帝室技芸員の野口小蘋の後、河邊青蘭が近代大阪を代表する南画女性画家となり人気を博しました。
左から:河邊青蘭《武陵桃源図》明治41年 大阪中之島美術館、河邊青蘭《態濃意遠図》明治22年 実践女子大学香雪記念資料館
詩書画一体の南画(文人画)は、漢学の素養が必要とされ、それなりの教養を身に着けられる環境や女性の南画家を受け入れる環境が当時の大阪にありました。
波多野華涯《西洋草花図》大正14年 大阪中之島美術館
生田花朝は、生涯浪華情緒を描きました。
生田花朝《極楽門の春》昭和40年 四天王寺 第8回新日展出展作
官展初入選は、大正14年36歳ですが、翌第7回帝展で女性として初めて特選となりました。
左から:生田花朝「うちわ原画」《提灯》《こま遊び》昭和時代 四天王寺
第4回大阪女流画家展(大阪三越屋上にて)昭和12年
商都として繁栄していた大阪では、お稽古事から日本画を始めた裕福な商家の子女と家業を手伝い職業画家を志した人が居ました。
左から:秋田成香《居眠り》大正後期 関和男氏蔵、秋田成香《ある夜》大正9年 個人蔵
秋田成香《ある夜》は、103年ぶりに公開された作品で成香の現存する作品の中での代表作です。
西口喜代子《淀殿》大正後期-昭和前期 個人蔵
落款以外に手掛かりがなく、八千草会展出品作品作家の中に「喜代子」という名前が見つかり、西口喜代子の作品として展示されています。
左から:三露千鈴《秋の一日》大正15年(1926)、《お人形》大正後期 大阪中之島美術館
船場の裕福な商家の娘であった三露千鈴は、木谷千種の画塾に通いました。《秋の一日》を描いた数か月後に22歳で亡くなってしまいます。最期まで絵筆を持っていたのかその指に絵具がついたままだったと音声ガイドから聴こえて思わず涙しました。
大阪の女性日本画家とその作品を、近代日本美術の歴史の中に正しく位置づけようとする展覧会。
音声ガイドは、大阪出身の女優・木南晴夏さんが担当していますよ。
《高白梅図振袖》昭和前期 株式会社小大丸