京都画壇/10分でわかるアート

10分でわかるアートとは?

10分でわかるアート」は、世界中の有名な美術家たちや、美術用語などを分かりやすく紹介する連載コラムです。

作家たちのクスっと笑えてしまうエピソードや、なるほど!と、思わず人に話したくなってしまうちょっとした知識など。さまざまな切り口で、有名な作家について分かりやすく簡単に知ってもらうことを目的としています。

今回は、近世・近代の京都で活躍した画家たちの総称である「京都画壇」について詳しくご紹介。

「この作品を作った作家についてもう少し知りたい!」「美術用語が難しくてわからない・・・」そんな方のヒントになれば幸いです。

京都画壇とは

江戸時代末期から明治期にかけて、京都で活躍した画家たちの総称である京都画壇
その原点は、江戸時代に活躍した狩野派・土佐派などの幕府や大名に仕えた御用絵師と、円山派・四条派などといった町絵師たちといわれています。

円山・四条派とは、近代絵画につながる写生画の一派で、円山応挙を祖とする円山派と、応挙の弟子の松村呉春(ごしゅん)を祖とする四条派の二つの流派をあわせたもの。

彼らは、狩野派や水墨画の技法をベースに、見たものを見たまま描く写生を重んじた絵を描いて、町人たちから絶大な人気を誇りました。

京都画壇の画家たちは個性的な人ばかり

江戸や京都などの大都市では、庶民たちの文化が成熟の時を迎えた江戸時代末期。

このころ、公家などの支配者の権威を表現する大画面で描かれた絵画に代わり、個人的な求めに応じた個性的な作品が流行っていきます。

スフマート Sfumart 10分でわかるアート 京都画壇 日本絵画 美術用語説明
(上から)与謝蕪村 国宝《夜色楼台図》1778-83年頃/円山応挙 国宝《雪松図屏風》1786年頃/伊藤若冲 重要文化財《仙人掌群鶏図》1790年

京都では、中国文人画のやわらかなスタイルを取り入れた池大雅(いけのたいが)や与謝蕪村(よさぶそん)に続き、リアリティある写生画を取り入れ、近代日本画の発展に重要な役割を果たした円山応挙、そして独創的な細密画を描く伊藤若冲などが、町人たちの人気を集めていました。

そして、このころ誕生した絵画の中には、日本絵画史のなかで突然変異したような独創的で個性のある作品も多くあります。

自我の強い表現で注目される曽我蕭白(そが しょうはく)も、そのひとりです。特に蕭白は、その性格も個性的なものでした。

京都の染物屋に生まれた蕭白。10代で両親を亡くし、天涯孤独となりますが、その後の詳しい人生は不明です。

ただし、奇妙な行動をしたり、応挙に一方的な暴言を吐くなどの奇行で知られているそうです。過激な性格だったといいます。

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曾我蕭白《美人図》江戸時代(18世紀)

細かく裂けた手紙をくわえ、素足で立つ女性を描いた、蕭白の《美人図》。
素足の爪には泥が詰まり、うつろな目とだらしなく着た着物姿と、あやしげな雰囲気が伝わってくる作品です。

こうした蕭白の作風は、大衆から人気のあった応挙とは真逆なものでした。

一見どぎつくて変わった蕭白の作品ですが、このころの京都の人びとは文化的自由度が高く、彼の絵を支持するコアなファンもいたそう。

こうした変わり者画家や、それを受け入れる自由度の高い京都の人びとが上手くマッチして、日本近代絵画が発展していったのです。

京都画壇を代表する画家たち

円山派の祖・円山応挙

日本写生画の祖である円山応挙は、ウサギや鳥などの小動物を描くのが得意だったといいます。
なかでも、犬の絵は当時の庶民たちにもニーズが高く、多くの作品が現存しています。

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円山応挙《朝顔狗子図杉戸絵》1784年

子犬のふわっとした質感、たまらず抱き上げたくなリアルな描写は応挙ならではのもの。
30代のころには、応挙の人気は爆発的なものになり、当時の京都の有名人をランキングにまとめた『平安人物志』という本では、1768年に2位、1775年には1位に輝きました。

※円山応挙についてもっと知りたい方はこちら

ほのぼのとした柔らかい作風が特徴・池大雅

幼いころから中国の書を学び、神童と呼ばれていた池大雅。中国文人画の柔らかなスタイルを手本に、詩と書、そして画でのびのびと自由に表現する新しい画風を確立しました。

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池大雅 国宝『十便図』のうち『釣便図』1711年

中国では、官僚たちが仕事を離れ、知識人のたしなみとして描く絵のことを文人画といいます。江戸時代中期以降にそれらが日本に伝わると、その風習に憧れたさまざまなな階層の人びとによって、日本ならではの文人画が描かれました。

日本では、絵の上手さよりも画家の内面性や精神性を重視した作品が流行ったそう。

池大雅などを代表とする日本の文人画は「南画(なんが)」と呼ばれ、中国の文人画よりもやわらかな表現が特徴になっています。

おわりに

新時代の日本画を担った画家たちが多く活躍した、京都画壇。

1880年に開校した日本初の公立の絵画専門学校である京都府画学校(現・京都市立芸術大学)には、京都画壇の多くの画家たちが教師に就きました。

ここで彼らは、次代を担う画家たちを育成。このことは、現在まで続く京都の美術界の発展の礎となっています。

京都画壇で活躍した画家たちによって築かれた、京都の美術界。現在でも京都の美術品は私たちにとって、親近感を覚えるものが多いと思います。そうした感覚の裏側には、自由で個性的な画家たちを支えた、当時のおおらかな町の人びとの姿があったということを、本記事で知ってもらえたら嬉しいです。

次回は、奇想の画家「伊藤若冲について詳しくご紹介します。

お楽しみに!

【参考書籍】
・矢島新『マンガでわかる「日本絵画」の見かた 美術展がもっと愉しくなる!』誠文堂新光社 2017年
・守屋正彦『てのひら手帖 図解 日本の絵画』東京美術 2014年
・安村敏信『すぐわかる 画家別 近世日本絵画の見かた』東京美術 2005年