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クロード・モネの世界にひたる。日本初公開作品を含む〈睡蓮〉などを堪能【国立西洋美術館】
2024年11月1日
「10分でわかるアート」は、世界中の有名な美術家たちや、美術用語などを分かりやすく紹介する連載コラムです。
作家たちのクスっと笑えてしまうエピソードや、なるほど!と、思わず人に話したくなってしまうちょっとした知識など。さまざまな切り口で、有名な作家について分かりやすく簡単に知ってもらうことを目的としています。
今回は、カラバッジョやディエゴ・ベラスケスなどで有名な「バロック美術」について詳しくご紹介。
「この作品を作った作家についてもう少し知りたい!」「美術用語が難しくてわからない・・・」そんな方のヒントになれば幸いです。
ヨーロッパでは、16世紀初頭から始まった宗教改革によって、それまで広く信仰されていたカトリック教の権威が低下します。
聖書の教えを大切にすることを説くプロテスタントが、宗教画は「偶像崇拝」に当たるとして強く非難するなど、歴史の教科書にも登場するこの大改革は、絵画の世界にも大きな影響を及ぼしました。
そうしたなかで、カトリック側がプロテスタントへの反撃手段として採用したのが、彼らが批判する宗教画を「宗教芸術」として布教に利用することでした。
ピーテル・パウル・ルーベンス《キリスト昇架》1610-1611年
1545年から1563年にかけて開催されたトレント公会議において、宗教美術自体は礼拝の対象ではないことが定義され、プロテスタントの批判を否定することに成功。そして、字が読めない庶民に信仰を促すためには、美術作品自体を王侯貴族のみならず、広く市民まで楽しめるものにする改革を行います。
この美術改革こそが、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョなどに代表されるバロック美術です。複雑な動きや曲線から生み出されるダイナミックなデザインと、強烈なコントラスト(対比)を使って観る人を絵の世界へ引き入れる特徴をもっており、次第に流行するようになったのです。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ《聖マタイと天使》1602年頃
ちなみに「バロック」とは、本来「ばかげた」や「規則からはずれた」という意味の言葉だそう。また、ポルトガル語で「ゆがんだ真珠」を意味するバローコに由来するとも言われています。
「バロック」という言葉は、美術のみならず、建築や文学、音楽など、誇張や劇的な効果を追求した17世紀全体を示すものとして使われています。
ルネサンス美術の古代ギリシャやローマに見られる「人間を中心とした文化」を理想とした考えは、バロック時代にさらに強まり、宗教画に描かれる聖人の姿も庶民のような現実的な姿で描かれるようになりました。
(左から)ヨハネス・フェルメール《真珠の耳飾りの少女》1665年頃/レンブラント・ファン・レイン《夜警》1642年
この時代、スペインではディエゴ・ベラスケスなどが活躍する「スペイン絵画の黄金時代」を迎え、市民文化が盛り上がるオランダではレンブラントやヨハネス・フェルメール、そしてフランドルでバロックの巨匠・ピーテル・パウル・ルーベンスなどが活躍しました。
徳川家康が江戸に政治の中心を置いた17世紀。日本では、俵屋宗達(たわらや そうたつ)を祖とする「琳派」が京都で花開きます。
戦国末期から江戸初期の京都では、富裕な町人が文化活動の担い手として活躍し始めた時期で、琳派は彼らの文化サロンと深く関係しながら発展していきました。
俵屋宗達 国宝《風神雷神図屛風》二曲一双 江戸時代・17世紀前半
江戸中期には尾形光琳(おがた こうりん)が出てきて宗達の技を継承し、琳派をさらに発展させていきます。
その後、光琳が没したことにより琳派が衰退し始めたころ、江戸で酒井抱一(さかい ほういつ)が琳派の技に江戸人の感性を加えた独自の画風を確立し、琳派ブームを再び巻き起こしました。
琳派についてもっと知りたい方はこちら
バロックの先駆者、カラヴァッジョ
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571-1610)は、強烈なコントラストを駆使したドラマチックな絵画演出を考案し、その写実性の高さからバロックの先駆者と呼ばれる画家です。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ《聖マタイの召命》1600年
25歳のときに、カトリック教における最高指導者であるデル・モンテ枢機卿の目に留まると、彼の計らいによって、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂の礼拝堂を飾る大作の依頼を受けます。
そこで描いた《聖マタイの召命》などが脚光を浴び、カラヴァッジョは一躍バロック絵画の第一人者として認められました。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ《キリストの捕縛》1601年
しかし、カラヴァッジョはひとたび筆を置けば、手に負えないぐらいの暴れ者だったそう。さまざまな犯罪歴を重ね、1606年には決闘の末に殺人を犯し、死刑判決を受けてしまいます。
カラヴァッジョはローマからナポリへ逃亡。その逃避行のなかでも数多くの傑作を残しますが、1610年7月、減刑を期待してローマに戻る途中、熱病に倒れて世を去りました。
スペイン国王フェリペ4世のお気に入り!ベラスケス
現在でも多くの観光が訪れる、スペイン・セビーリャ。フラメンコの本場の町として有名な観光都市です。そんな活気あるセビーリャの貴族の血筋を引く家庭に、ディエゴ・ベラスケス(1599-1660)は生まれました。
セビーリャで宗教画などを中心に描き活動していましたが、24歳でマドリードに拠点を移動。マドリードで、国王フェリペ4世の宮廷画家として活躍するようになります。
ベラスケスは、フェリペ4世に大変気に入られていました。そして、彼は王族の肖像画を一任されて多くの傑作を描き残します。そのうちのひとつが、代表作である《ラス・メニーナス》です。
ディエゴ・ベラスケス《ラス・メニーナス》1656年
モデルを理想化することなく、鏡に映し出されたように描くことを徹底していたというベラスケス。
そんなベラスケスの作品は、19世紀に入ると、印象派の画家たちから「画家のなかの画家」と称賛され、評価は世界的に高まりました。彼の作品の多くは、プラド美術館が所蔵していますよ。
※ディエゴ・ベラスケスについてもっと知りたい方はこちら
外交官としての顔ももつ画家、ルーベンス
ピーテル・パウル・ルーベンス《キリスト降架》1611年
ピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)は、ドイツで生まれました。
アントウェルペンでの画家修業を経て、23歳のときにイタリアへ渡ったルーベンス。イタリアで古典主義や新しいバロック表現などを身につけます。
31歳でアントウェルペンに戻ると、アルブレヒト大公の宮廷画家となります。その後、アントウェルペンに工房を構え、100人もの弟子を抱えて多くの傑作を生み出していきました。
しかも、ルーベンスは高い教養を持ち、温厚な人柄だったそう。そのため各国の王侯貴族から愛されて、彼らをパトロンにして、各国の宮殿で仕事を行った上、外交官としても活躍しました。
史上初の風俗画といわれる作品
カラバッジョとともにイタリア・バロックをリードした、カラッチ一族。兄のアゴスティーノ、弟のアンニバレそしていとこのルドヴィコの3人のことを示します。
カラッチ一族は、ボローニャにアカデミア・デリ・インカミナーティという画学校を創設し、ボローニャの後進を育てました。
アンニバレ・カラッチ《豆を食う男》1580-1590年
なかでも高い実力を持っていたのが、弟のアンニバレでした。彼が描いた《豆を食う男》は、史上初の風俗画といわれる作品です。
バロック美術の時代に、風景画や風俗画、静物画といった現実との関係が深いジャンルも独立し、発展したようすがよくわかりますね。
宗教布教のために生まれた、バロック美術について詳しくご紹介しました。
ルネサンス末期に始まった宗教改革で押し出されたカトリックが、芸術を積極的に布教に活用することから始まった、バロック美術。イタリアをはじめ、ヨーロッパのさまざまな地域で発展していきます。
なかでも、フランドル(現・ベルギー)では、バロック美術でもっとも成功したといわれるルーベンスが、フランドル絵画の黄金期を築き上げました。
次回は、フランドルを代表する画家、ピーテル・パウル・ルーベンスについて詳しくご紹介します。
お楽しみに!
【参考書籍】
・早坂優子『巨匠に教わる 絵画の見かた』株式会社視覚デザイン研究所 1996年
・早坂優子『鑑賞のための 西洋美術史入門』株式会社視覚デザイン研究所 2006年
・岡部昌幸 監修『西洋絵画のみかた』成美堂出版 2019年