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2024年11月21日
「10分でわかるアート」は、世界中の有名な美術家たちや、美術用語などを分かりやすく紹介する連載コラムです。
作家たちのクスっと笑えてしまうエピソードや、なるほど!と、思わず人に話したくなってしまうちょっとした知識など。さまざまな切り口で、有名な作家について分かりやすく簡単に知ってもらうことを目的としています。
今回は、国内でも多くのファンがいるポスト印象派の画家「フィンセント・ファン・ゴッホ」について詳しくご紹介。
「この作品を作った作家についてもう少し知りたい!」「美術用語が難しくてわからない・・・」そんな方のヒントになれば幸いです。
1853年3月30日、オランダ南部のズンデルトに生まれたフィンセント・ファン・ゴッホ。彼が生まれたちょうど1年前の同じ日に誕生し、生後まもなく亡くなった兄・フィンセントの生まれ変わりとして、同じフィンセントという名前が授けられました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《自画像》1887年春
正式な美術教育を受けていなかったファン・ゴッホは、独学で絵を学びます。レアリスムや印象派、浮世絵の影響を受けながら絵の具をすばやく分厚く塗り上げる、力強い独自の画風を完成させました。
1888年からは画家の共同体をつくることを夢見て、南仏・アルルへ移住します。しかし、思い込みの激しい性格が災いし、友人のポール・ゴーガンとの共同生活はわずか2ヶ月で破綻。自分の左耳を切り落とす「耳切り事件」を起こします。
この事件をきっかけに、精神状態が不安定になってしまったファン・ゴッホでしたが、作品制作は続けていました。しかし、精神状態は悪化の一途をたどり1890年、胸にピストルを撃ち自殺してしまいます。享年37歳でした。
ファン・ゴッホが画家として活動した期間はわずか10年でした。その短い画家人生のなかで、800点の油彩画と850点のデッサンを残していますが、生前に売れた作品は1点だけだったといいます。死後、前衛的な画家や批評家たちのあいだで高い評価を受け、今に至ります。
ファン・ゴッホは画家になる前、画商の伯父の勧めで、美術商グール商会ハーグ支店で働いていました。優れた記憶力を持ち、店で取り扱っている作品のほとんどを覚えていたのだそう! なかでも、「荷ほどき」と「荷造り」の達人だったといわれています。
しかし当時の下宿先の娘に恋をし失恋すると、そのショックで仕事に身が入らず・・・ついに美術商の仕事を解雇されてしまいます。その後は、イギリスの寄宿学校で言語教師など職を転々としますが、どれも上手くいきませんでした。
挫折し続けたファン・ゴッホは1880年、ついに画家になることを決意。この年からテオはファン・ゴッホが亡くなるまで仕送りを続けて彼の画家活動を精力的に支えました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ジャガイモを食べる人々》1885年
貧しい人びとの暮らしをテーマとした本作は、ファン・ゴッホの初期作品の傑作と言われています。
彼は1885年の3月から4月にかけて、《ジャガイモを食べる人々》の習作を制作していました。そしてその習作をパリで画商として働いているテオに送ります。しかし、画面が暗すぎるなどと批判されたのだそう。
頑固な性格でもあるファン・ゴッホはテオの反応をよそに、当時自分が表現したかった貧しい農民の姿を描き上げて、画家としてデビューを果たしました。
フィンセント・ファン・ゴッホ《タンギー爺さん》1887年
ファン・ゴッホは1886年から2年間、パリで暮らすテオの家に居候していました。
この期間に描いた《タンギー爺さん》は、パリで画材店を営み、また美術商であったジュリアン・タンギーという人物を描いた肖像画です。本作は全部で3つ存在しています。
タンギーはその陽気な性格と美術への情熱により、画家たちに「お父さん」と慕われていたのだそう。ファン・ゴッホも彼から多大な恩恵を授かりました。
タンギーの後ろに描かれている作品に注目! 描かれているのは葛飾北斎などの浮世絵です。本作は、印象派と浮世絵の技法を取り入れたファン・ゴッホの新しい作風の代表作として知られています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり(15本)》1889年
1888年にファン・ゴッホは、南フランスのアルルに移住します。ここで彼は、画家仲間を「黄色い家」に呼び寄せて画家の共同体をつくることを夢見ていました。この夢が孤独なゴッホの心を支え、アルルに住んでいる期間は、もっとも明るく幸福に満ちた作品が多く制作されます。
黄色い家に来る友人・ゴーガンを歓迎するために描かれた本作。ファン・ゴッホは《ひまわり》を何度も描いて、アルルの家を飾り立てました。
現在《ひまわり》は6点存在しており、うち1点は新宿のSOMPO美術館で観ることができますよ。
わずか2ヶ月のゴーガンとの共同生活以降、ファン・ゴッホは不安定な精神状態のなかで数多くの傑作を生みだしました。
長年貧しい暮らしに悩んでいた彼にとって、金銭面はテオの仕送りだけが頼りだったといいます。しかし精神状態が悪化していたファン・ゴッホは、弟に負担をかけていることに申し訳なく思い、なんと自殺未遂を図ります。それを聞きつけたテオは、すぐに兄のもとへ! ファン・ゴッホは自殺未遂を図った2日後、弟の腕に抱かれて亡くなりました。
ファン・ゴッホの死後、テオも持病と最愛の兄を亡くしたことから精神も病んでしまい、兄を追いかけるように半年後に他界。残されたテオの妻・ヨーは、テオの墓をオーヴェールにあるゴッホの墓の横に移し、「永遠に一緒にいられるように」取り計らいました。
ヨー夫人は一人息子のフィンセントを連れてオランダに戻り、下宿屋を営みながら当時ガラクタ同然だったファン・ゴッホの作品を大切に管理します。また、残されたファン・ゴッホとテオの800通にものぼる手紙も整理し、出版することに尽力しました。
ヨー夫人がファン・ゴッホの作品を大切に守り伝えてくれたおかげで、今も私たちが彼の作品を観ることができるのですね。
嵐のような生涯を送った画家、フィンセント・ファン・ゴッホについて詳しくご紹介しました。
今では日本のみならず、世界でも愛されているファン・ゴッホですが、生前は1点しか絵が売れなかったことに驚きました。ヨー夫人が守った彼の作品は、20世紀絵画に大きな影響を与えています。
わずか10年のキャリアの中で独自の感性を磨き、数多くの傑作を残したファン・ゴッホ。次に日本で彼の展覧会が開催されるときは、その人生にも注目して見てくださいね。
さて次回は、19世紀後半のフランスを中心にみられた「ジャポニスム」について、代表作とあわせて詳しくご紹介します。お楽しみに!
【参考文献】
・杉全美帆子『イラストで読む 印象派の画家たち』株式会社河出書房新社 2013年
・岡部昌幸 監修『西洋絵画のみかた』成美堂出版 2019年